じじぃの「人の死にざま_241_ゴーギャン」

ポール・ゴーギャン - あのひと検索 SPYSEE
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画家のポール・ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wgIRBJ5BwDM
『すぐわかる 画家別抽象絵画の見かた』 本江邦夫/著 東京美術 2005年発行
ゴーギャン (一部抜粋しています)
アルルの洗濯女
この作品を見て、抽象画だと感じる人はどれぐらいいるだろうか。たしかに、後世の抽象画に比べると、人物の形もはっきりと見え、具象的ではある。しかし、これはまぎれもなく抽象的な思考によって描かれた作品なのである。
ゴーギャンは輪郭をはっきりと描き、内部を一様な色彩で埋め尽くしていくクロアゾニスム(区分主義)を考案した。これは七宝焼や日本の浮世絵から発想を得たものである。この手法により、色彩と形態の単純化が図られ、当時としては画期的な絵画となったのである。
抽象化への第一歩が見えますか
ゴーギャンは、1888年の夏、ポン=タヴエンから友人の画家にあてた手紙の中で、「芸術とはひとつの抽象である」と書いている。それ以前から、抽象と言う思考はボードレールなどにあったといえ、画家の言葉の中に「抽象」が登場するのは、おそらくこれが最初である。ゴーギャンの作品は、かなり抽象的に見えるが、その考え方は抽象の第一号といえるのだ。各部が個別のパターンのようでありながら全体としてまとまっているこの作品は、総合主義の典型である。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ゴーギャン (1848-1903) 55歳で死亡。 (一部抜粋しています)
株式仲買人として一応安定した生活をし、ただ日曜画家的に絵を趣味としているかに見えたポール・ゴーギャンは、35歳のとき、突如それまでの生活を捨てて、画家として第2の−−彼にしてみれば本来の人生に歩み出した。
彼の計算では、そうしてもそれまでの生活が維持できるはずであったが、そうは問屋が卸さず、結果的には、妻と5人の子供を捨てる羽目になった。あまりにも家庭的な妻メットは、彼を「怖ろしいエゴイスト」と呼び、生涯彼を許さなかった。
彼の絵は認められず、従って売れず、赤貧洗うがごとき生活ののち、43歳のとき、彼は南太平洋のフランス領タヒチ島へ旅立った。それは生活に悩まされずに絵をかくためと、彼の内部からの「野生への憧(あこが)れ」によるものであった。
ゴーギャンは、そこで現地人の女ヴァヒネと小屋に住み、後に有名になる数々の傑作をかいてパリに送ったが、依然それを認める者は少なかった。
「私はあなたの芸術を理解することが出来なし、それを好きになることも出来ない」
と。文豪ストリンドベリは書き、彼を定義した。
「それでは彼は何物だろう。彼はゴーギャンである。窮屈な文明を憎み嫌った野蛮人。創造主を嫉妬するあまり、暇つぶしに彼のささやかな創造を行う一種の巨人族、自分の玩具を愛して別のものを作ろうとする一種の巨人族、大衆とともに空を青いと見るよりも赤いと見ることを好んで、すべてを否認し、すべてに挑戦する者」
タヒチにおけるゴーギャンの生活の窮乏よ孤独は年とともに深まった。自分の芸術について−−かって交際したゴッホと喧嘩して、ゴッホにみずから耳を切らせるという事件を起こしたほどの−−傲慢なばかりの自信を持っていた彼も、しだいに悲鳴をあげるようになった。
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53歳のとき、彼はタヒチよりなお未開のヒヴァ・オア島に渡り、依然現地人のヴァヒネと同棲し、最後の傑作群を描く。そればからではなく、どこに行っても争いを起こさずにはおかない彼の性格は、島民に、通学、納税反対運動をたきつけ、島のカトリックの司教や憲兵と悶着を起こす。
一方で彼はまた、フランスへ帰りたいという希望を故国の友人へ送ったが、君は大洋州の遠くから作品を送ってくる伝説的な芸術家ということで値打ちがあるのだから、絶対に帰って来るべきではない、という反対の手紙をもらっただけであった。
1903年3月末に、彼は現地当局から「憲兵隊の名誉棄損(きそん)の罪」で3ヵ月の禁錮(きんこ)と500フランの罰金を命じられた。ゴーギャンは罰金はおろか、タヒチの弁護士のところに相談にゆく旅費もなかった。
彼は書いた。
「私の一生は、倒れたり、また立ち上ったり、また倒れたりするように運命づけられていたということが出きる。昔の私の気力も、今日1日1日と尽きてゆく」
4月のはじめに、ただ一人親しく交際していたプロテスタントのヴェルニエは、ゴーギャンから、もう歩くことも出来ないし、眼も見えなくなったという連絡を受けて、小屋にいってもると、彼はひどく苦しんでいた。しかしそのときはまだゴーギャンは、芸術について語ることが出来た。
ヴェルニエは記す。
「5月8日の朝早く、テイオカ(ゴーギャンがやとっていた現地人のコック)が私を呼びに来ました。ゴーギャンは内蔵の烈しい痛みを訴え、今は朝か夕方か、昼か夜かと訊(き)きました。2度も気を失ったといって、そのことをひどく心配していました。・・・・話をしたあとは落ちついて来たようすなので、安静にさせておいて帰りました。
11時ごろ、召使いの若いカフィが大急ぎで私を呼びに来ました。『早く来て! 白人が死んだ!』
ゴーギャンは片脚を寝台から垂らして死んでいました」

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