じじぃの「科学・芸術_579_1964年東京オリンピック・沖縄聖火リレー」

「そうだったのか 沖縄!」06 祖国との一体感を求めて開催された東京オリンピック沖縄聖火リレー 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KNqiZRFKVkc
琉球切手:
1964年オリンピック東京大会 沖縄聖火リレー記念

『沖縄はいつから日本なのか 学校が教えない日本の中の沖縄史』 仲村覚/著 ハート出版 2018年発行
沖縄祖国復帰の真実 より
大東亜戦争の敗戦後、日本はGHQの間接統治を受けましたが、形式上は日本人により、内閣も国会も運用されました。一方、沖縄戦で米軍に上陸支配された沖縄では、1946(昭和21)年1月29日、GHQよりSCAPIN-677が指令され、北緯30度以南の南西諸島全域における日本の施政権が停止され、行政的に日本から分断された統治が行われました。
当初は、琉球列島米国軍政府、その後は琉球列島米国民政府が設置され、その下に琉球政府が置かれました。その後、沖縄の行政は米国式で行われ、車は右側、速度はマイル表示、通貨はドルが使われました。しかし、沖縄県民はこのような植民地統治をそのまま受け入れたわけではありませんでした。
沖縄の戦後は、捕虜収容所から始まりました。1945(昭和20)年8月13日、知念収容所の中で、仲吉良光(元首里市長)らが地区米軍隊長に対し、「対日講和の際、沖縄は日本の一部として残るよう、配慮方をワシントン政府に進言してもらいたい」と陳情書を提出しました。
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2020年東京オリンピック開催も再来年に迫り、カウントダウンが近づいてきました。日本選手団への気体も大きく膨らみます。東京でのオリンピック開催は2度目となりますがここで、前回の東京オリンピック開催に隠された、重要な意義を振り返ってみたいと思います。
54年前に開催された東京オリンピックは、まさしく日本の敗戦からの復興の象徴でもありました。これをきっかけに日本の高度成長は加速し、1968(昭和43)年にはドイツを抜いてGDP世界第2位になりました。
しかし、戦後復興のシンボルである東京オリンピックを語る上において、見逃されている重要なことがあります。それは、東京オリンピックが開催されたその瞬間、沖縄はいまだに米軍の占領下にあったということです。では、当時の沖縄県民は東京オリンピックを、どのように受け止めたのでしょうか?
それを象徴するものが、1964(昭和39)年の琉球切手です。当時、沖縄はまだ米国の施政権下にあったため、この切手は5円でも10円でもなく「3セント」と書かれています。
切手の下側には、「1964年オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」と書かれています。
そうです。米国占領下の沖縄で東京オリンピック聖火リレーが行われたのです。
1959(昭和34)年、東京が第18回夏季オリンピックの開催地に決定しました。その直後から沖縄体育協会は聖火リレーを沖縄でも実施するよう、オリンピック東京大会組織委員会など関係機関に強く働きかけていました。
1962(昭和37)年7月4日、「聖火リレー特別委員会は、国内聖火リレーは全都道府県をカバーすること」「走者は青少年で、日本最初の着地点は沖縄とすること」を決定しました。
「日本最初の着地点は沖縄とする!」
この決定は、当時の沖縄県民にとっては、言葉に表すことのできないほどの喜びだったと思います。
前述の通り、その頃、戦後の現役総理大臣で沖縄を訪問した人は誰もいませんでした。また、日本政府は、沖縄返還については「時期尚早で国益に反する」という風潮で消極的あり、日本政府が沖縄の民生向上のための支援を申し出ても、米国は拒否するような関係でした。
つまり、沖縄県民にとっては、「祖国日本に復帰できるのかどうかもわからない」「日本の高度成長にも取り残されてしまうのではないか」という疎外感が、最も強く感じられた時期だったのです。
そのような中で、祖国日本の世紀の祭典、東京オリンピック聖火リレーの沖縄開催は、「祖国との一体感」を体験できる最高のイベントであり、その国内最初の着地点として選ばれたことによって、「沖縄はまだ見捨てられていなかった!」という希望と「自分たちは日本人だ!」という誇りの、両方を取り戻すことができたのです。