米フォーク歌手ピート・シーガーさん死去 反戦活動も 2014年1月28日 朝日新聞デジタル
米国のフォーク歌手で、反戦などの社会運動でも知られたピート・シーガーさんが27日、ニューヨーク市の病院で死去した。94歳だった。
http://www.asahi.com/articles/ASG1X5RXSG1XUHBI027.html
Pete Seeger - Where have all the flowers gone? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7pZa3KtkVpQ
if i had a hammer - peter paul and mary 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_UKvpONl3No
ピート・シーガー
ピート・シーガー ウィキペディア(Wikipedia)より
ピート・シーガー(英語: Pete Seeger、1919年5月3日 - 2014年1月27日)はアメリカ合衆国のフォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。
第二次世界大戦前の1940年代から全国放送のラジオで活躍し、1950年代はじめにはウィーバーズ (The Weavers) の一員として一連のヒット作を出した。1960年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。
ソングライターとしては「花はどこへ行った (Where Have All the Flowers Gone?)」(ジョー・ヒカーソン〈Joe Hickerson〉との共作)、「天使のハンマー (If I Had a Hammer)」(ウィーバーズのリー・ヘイズ〈Lee Elhardt Hays〉との共作)、「ターン・ターン・ターン (Turn! Turn! Turn!)」などの代表作を生み出した。スピリチュアル(霊歌)「ウィ・シャル・オーバーカム (We Shall Overcome)」を1960年代の公民権運動を象徴する歌にした立役者でもある。
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『ボブ・ディラン――ロックの精霊』 湯浅学/著 岩波新書 2013年発行
ソング・トゥ・ウディ (一部抜粋しています)
フォーク・ソングは歴史や習俗、文化人類学的アプローチが避けて通れないものであることから、聴き手も歌い手もすんなり手を携えるわけにはいかない面もあった。そのような中でボブは、スノビッシュな研究者とも、コマーシャルで一聴洗練を感じさせる歌い手たちとも違う「バランスのとれた目で眺めよう」としていた。
ガスリーの歌から”歌は生き方を学べるものである”ということを体感したボブは、ガスリーの歌を書き込むほどに、ミネアポリスでの生活が留まるに及ばぬものに思われ、窮屈に感じるようになった。ガスリーの自伝『ギターをとって弦をはれ(Bound for Glory)』を熟読していたボブは、いてもたってもいられなくなった。
そして、ある日、ウディに会いに行くことを決意する。フォーク・ソングの中心地であるニューヨークを目指し、ミネアポリスを後にした。極寒の1960年12のことである。クリスマスの直前、ギターとスーツケースひとつを持ち、ヒッチハイクで、ボブは旅立った。
道中にて
ニューヨークへの道すがら、ボブはシカゴに立ち寄った後、ウィスコンシン州マディソンに向かう。そこでボブは、数年前から全米の大学を歌ってまわる活動をしていたピート・シーガーのコンサートを見る。
ピート・シーガーはアメリカ・フォーク界の重要人物だ。オルマナック・シンガーズ、ウィーヴァーズの一員として活動し、バンジョー・プレーヤーのシンガーソングライターだった。ウィーヴァーズ時代にラディカルな発言と活動でマッカーシーの”赤狩り”対象者リストに載り、51年に活動停止を余儀なくされてしまう。
そんな折、学生からの公演依頼を受ける。53年のことである。ボランティアによる募金でまかなう大学での小さなコンサートだった。それ以後、シーガーはアメリカ全国の大学生からの依頼に応じて歌い歩いた。
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ベッシー・スミス、フレッチャー。ヘンダーソン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、チャーリー・クリスチャン、ビリー・ホリディ、挙げればきりがないジャズ、ブルース、R&Bの歴史に残るミュージシャンのレコーディング・プロデューサーを務めたジョン・ハモンドが、ボブのレコードを作りたいと言ってきた。
ハモンドはボブに声をかける前年、ピート・シーガーのアルバムを作っている。彼はフォーク・シンガーに注目していた。当時コロムビアにはフォークのアーチストは一人も所属していなかった。シーガーは赤狩りのブラックリストに載っている人物だったが、フォーク界の重要人物だ。ハモンドはコロムビアで扱えない作品に対しては、別のレーベルからの発売を許可するという一項を契約に盛り込んだ。シーガーの活動を尊重する配慮である。
ハモンドの自伝によれば、ボブの前にジョーン・バエズにも契約を持ちかけている。1959年、フォーク・シーンに鮮烈に登場した美声と美貌の持ち主、新しいフォークのミューズは、しかし金額面でハモンドと折り合わなかった。予想以上の高額だったという。
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ピート・シーガー Google 検索
https://www.google.co.jp/search?espv=210&es_sm=93&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=54D1Us72FcjvlAXWpYGYDw&ved=0CCcQsAQ&biw=915&bih=600&q=%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC%20%E7%94%BB%E5%83%8F#q=%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&tbm=isch