じじぃの「人の死にざま_1206_ネフェルティティ」

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ネフェルティティ NeFeRTiTi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hDKsJ-SFVcE
Nefertiti Resurrected 1/2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xoNndbjkh0o
ネフェルティティ ウィキペディア(Wikipedia)より
ネフェルティティ(Nefertiti、NeFeRTiTi、紀元前14世紀中葉)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテン(aKH-eN-aToN, イクナートン、旧名アメンホテプ4世)の正妃であり、ファラオ・トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN, ツタンカーメン)の義母である。
彼女の名の大意は、NeFeR-T-(美しい・者)が iTi(訪れた)。ネフェルティティはまた、謎を秘めた未完成の美しい胸像で著名であり、古代エジプトの美女の一人と考えられている。
エジプトの5ピアストル(エジプト・ポンドの補助通貨)紙幣に肖像が使用されている。
【不完全な左目】
ボルハルトは胸像を発見した当初、トトメスの工房が廃墟となったときに胸像の左目にはめ込まれていた石英が落剥したと考えており、工房跡を捜索したが左目の石英を発見することはできなかった。欠けた左目は、実際にネフェルティティが眼病に苦しみ失明していたのではないかという憶測を生み出したが、他の彫像では左目が表現されている事実と矛盾している。
【娘に続くネフェルティティ自身の記録の消失】
在位12年(紀元前1338年)の11月21日と推定される碑文が、彼女の娘メケタトンについて言及する最後の記録である。この日付の後、少ししてメケタトンは死去したと考えられる。アマルナの王家の谷にあるアクエンアテンの墓の浮き彫りは、彼女の葬儀の様を表しているように思える。
アクエンアテンの在位14年(紀元前1336年)、ネフェルティティ自身に関する歴史的記述が一切消えてしまう。またこの後、彼女について言及した記録も存在しなくなる。仮説は、王妃の突然の死に出逢い、耐え難い心の苦痛を抱いた王アクエンアテンがネフェルティティに関する言及を禁じたとするものから、王の寵愛を失い、王妃の地位を失ったネフェルティティが政治的に失脚してその名が消えたというものまで議論されている。しかし、この事件に関する信憑性ある資料は、歴史から完璧に消え去ってしまっている。

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『伝説の王妃 ネフェルティティ』 フィリップ・ファンデンベルク/著、金森誠也/訳 佑学社 1976年発行
終末 (一部抜粋しています)
ネフェルティティの息子ではなかったけれども、アマルナの北方宮殿で教育された約11歳のかわいらしい男の子、ツタンカーメンがいた。それでも彼は、いくらかはネフェルティティと血縁関係にあった。――彼の出身は今日に至るまで明らかにされていない。――そしてネフェルティティは、深い絶望の中にあって、王朝を維持するために、彼をファラオにしようと望んだ。
依然として、ネフェルティティはヒッタイトの王子を待望していた。依然としてハニスはハッティ(ヒッタイト)から帰ってこなかった。そしてハニスが帰ってこない限り、いくばくかの希望が残っていた。
だが、とうとう、ハニスは帰ってこなかった。われわれはハニスの運命については何も知らない。ただわかっているのは、ハニスがツァンナンツァ王子が帰るというネフェルティティへの喜びのメッセージをたずさえてハッティを出発したことである。
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ヒッタイト王子ツァンナンツァの死亡のニュースは、野火のようにエジプト中に広がった。まるで不動金縛りにあったようになった軍人や官僚は、報復攻撃を予期して北方をみつめた。しかしとりあえず何も起こらなかった。そしてこうしたことからも、強力なファラオを望む声が高まった。だが、ネフェルティティは少年をファラオに選んだ。
そればかりか、アメリカ人エドワード・フェイ。キャンベルのように、35歳のネフェルティティが、11歳のツタンカーメンと結婚しようと考えていたのではないかという疑問を投げかけるエジプト学者もいる。彼がアケタトンで国の支配者になったのは事実だ。ブドウ酒がめの封印は治世第1・第2・第3年までである。しかし彼の妻はネフェルティティではなく、その娘アンケセンパートンであった。
母親とど同様アンケセンパートンは偉大なる王妃として王座にのぼる前は、2年足らず、病めるファラオ、アクナトンの側室であった。13歳のアンケセンパートンは、確かにツタンカーメンより2歳年長であったが、若いファラオを誘導できるだけの強力な手腕をもっていなかった。明らかにネフェルティティは顧問の役割を演ずることができるだろうと希望した。そして当初は彼女の計算どおりにいった。ところが、まもなくネフェルティティは、主導権を握っているのは別の人物、つまり年をとった「神の父」アイであることを悟らねばならなかった。しかも騎兵の最高司令官であるアイの背後に、2番目の高級軍人がいた。この人物の年は若かったが、後年、権力と名声を獲得するようになった。すなわち東部軍最高司令官ホルムヘブである。
互いに手を握ることによって、エジプトのもっとも枢要な2人の軍人はある特定の目標を追及した。それはアトン信仰を排除し、伝統的なアモン礼拝を復活させることであった。無限の権力を示す印璽(いんじ)をたずさえた11歳のファラオは、アトン信仰の維持のために苦闘している義母ネフェルティティの忠告と、アモンに謝罪すべきことを説く長老アイの宣伝戦のいたばさみになって、激しくゆさぶられた。若いファラオがやさしく愛していたアンケセンパートンは、この闘争の中で、一種の中立的立場をとっていた。治世を始めた頃、ツタンカーメンとアンケセンパートンは、アケタトンの南方宮殿に住み、一方ネフェルティティは、依然として北方の首都の境界線近くにある宮殿に居をかまえていた。
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若き支配者夫婦はテーベに戻った。しかも、若いファラオの独自の宮殿については何らの出土品もないところから、ツタンカーメンは、アメンホテプ3世のかっての宮殿に移り住んだものと考えられる。1世代全体を通じて魔法の言葉となっていたアケタトンは、できるだけ速やかに忘れ去られるべきであった。
ただ1人の人物だけががんばっていた。それなネフェルティティである。王妃はいまや37歳になった。確かに年をとったとはいえ、依然として美しかった。8年前までは、彼女は世界でもっとも権力のある女性の1人であった。ところが、いまや追放され、軽蔑された女、下手に話題にしないほうが賢明だとされる女となった。たとえ彼女の名が表に出ることはあっても、その時は、「女異端者」という形容詞がつけられた。彼女の足もとに膝まづいた男たちは皆、いったいどこにいったのであろう? 彼女の大勢の廷臣の群れはいったいどうなったのであろう? 彼女の富は、最後に彼女自身はどうなったのか? 歴史はこれらの疑問のいずれについても明白な解答を与えることはできない。

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