じじぃの「人の死にざま_357_ハイゼンベルク」

ヴェルナー・ハイゼンベルク - あのひと検索 SPYSEE
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Werner Karl Heisenberg 動画 YouTube
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Quantum Mechanics: The Uncertainty Principle 動画 YouTube
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ヴェルナー・ハイゼンベルク フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(1901年12月5日-1976年2月1日)は、ドイツの理論物理学者。行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。
【生涯】
ドイツ南部バイエルン州ヴュルツブルクに生まれる。ミュンヘン大学のアルノルト・ゾンマーフェルトに学び、マックス・ボルンの下で助手を務めた後、1924年コペンハーゲンのボーアの下に留学。ボルンとパスカル・ヨルダンの協力を得ながら、1925年に行列力学マトリックス力学)を、1927年に不確定性原理を導いて、量子力学の確立に大きく寄与した。1932年に31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞。
【逸話】
インドの著名な詩人タゴールに東洋哲学を学び、その内容が量子力学の真髄に通じていることを知り、驚いたとされる。日本の物理学者については、「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統と、『量子力学』が、根本的に似ているからなのかもしれません」とコメントしている。
ピアノの名手であり、若い時には「将来は科学者になるか、ピアニストになるか」を真剣に悩んだほどの腕前であったという。

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『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
行列力学 ヴェルナー・ハイゼンベルク (一部抜粋しています)
双子
統合された量子論――現在では「量子力学」と呼ばれている――の誕生は、実際にはあまり幸せな出来事ではなかった。誰もが驚いたことに、1人ではなく2人――双子――が誕生したのだった。さらに悪い事に、この双子は、別々の医者の手で何ヵ月か間を空けて取り上げられた。しかもその血統については、厭な噂が流れていた。エルヴィン・シュレディンガーとそのミュンヘンやベルリンの同僚たちは、自分たちの子どもを「波動力学」と呼び、ヴェルナー・ハイゼンベルクとそのゲッティンゲンやコペンハーゲンの有人たちが主張する、「行列力学」というもう一人の子供をほとんど評価しなかった。シュレディンガー行列力学について、「視覚化しようがなく、かなり難解に思える超越代数の方法に、嫌悪感は抱かないとしてもがっかりした」と語っている。対するハイゼンベルク波動力学について、ヴォルフガング・パウリへの手紙の中で次のように述べている。「シュレディンガー理論の物理的な部分を考えれば考えるほど、自然と嫌悪感が湧いてくる。・・・・シュレディンガーが視覚化可能性について言っていることは、『きっと完全に正しくはないだろう』[ボーアが好んで使った湾曲表現]。要するに虚言だ」。しばらくの間物理学は、相続権と称号を巡って厄介な対立を繰り広げる、2つの生まれたての量子力学を養っていくしかないように思われた。しかし幸いなことに、両方の子供を正しく評価して理解する者が現れた。そして、双子の両方とも健康で正当な子供であって、量子力学という名前にふさわしいことが明らかになり、誰もが胸をなで下ろしたのだった。
神童
ハイゼンベルクが人格を形成した青年期、ヨーロッパは第一次世界大戦によって引き裂かれていた。最後の政治的経済的混乱の中、ドイツ人は老若男女を問わず目標と希望を失っていた。ハイゼンベルクは自伝の中で、「深く失望した旧世代の手から権力の手綱が離れると、若い世代は、新しい道を切り開こうと、あるいは少なくとも一面の闇の中で導いてくれる新たな星を見つけようと、一致団結した」と書いている。ハイゼンベルクは、ドイチャー・ノイブファートフィンダー(ドイツ新ボーイスカウト)という青年運動の非現実的な考え方に、自らの道しるべとなる星を見いだした。年少グループのリーダーになり、メンバーたちと生涯続く親友関係を築く。そしてハイキング、登山、キャンプをし、ドイツの将来について本気で話し合った。
父アウグスト・ハイゼンベルクからギリシャ哲学者兼科学者たちの思弁について教わった少年は、分子の結合をフックと留め穴で表現した奇妙な絵が描かれた教科書よりも、ギリシャ人たちが書いた科学の書物のほうが信じられると悟った。ボルツマン、プランクアインシュタインと同じく、ハイゼンベルクも小さいうちに音楽をマスターした。初めはピアニストになりたいと考えていたが、モーツアルトの作品よりアインシュタインの創作物のほうが身近でしかもおもしろそうに思えた。そこで1920年、19歳のとき、ミュンヘン大学のアルノルト・ゾンマーフェルトに、自分は理論物理学を勉強したいと掛け合った。
プランクを彷彿とさせるゾンマーフェルトのいかめしい風貌は、印象的ではあるものの、威圧するようなところはなかった。「その背が低くずんぐりした人物は、軍人のような濃い口ひげを生やし、私にはかなり厳格そうに見えたが、第一声を聞いただけで、若者、とくに指導と助言を求めてきた少年に善意を示し、心から関心を寄せていることが分かった」とハイゼンベルクは回想している。ギムナジウムを卒業したばかりで、自分がどんな大それたことを言っているのか分かっていないハイゼンベルクは、ゾンマーフェルトに、アインシュタインの一般相対論を研究して拡張したいと語った。ゾンマーフェルトは上級のセミナーへの出席を認めたが、標準的な物理学の所定の科目も取るよう指示する。
ある日ハイゼンベルクが講義室に入ると、「何か隠し事をしているような表情の黒髪の学生」に気づいた。それはヴォルフ・ガング・パウリで、ハイゼンベルクと「よく激しい批判を繰り広げるものの」、2人は親友となる。ハイゼンベルクとパウリはゾンマーフェルトについて冗談を言い合い、パウリは、ゾンマーフェルトによるボーアの原子論の拡張を批判した。すべて「大混乱」だ、と言うのだった。
物理学を勉強するハイゼンベルクにとって最も有意義だったのが、第4学期のときゾンマーフェルトに連れられてゲッティンゲンへ行き、ニールス・ボーアによる原子論に関する連続講義――画規制たちは「ボーア・フェスティバル」と呼んでいた――に出席したことだった。ハイゼンベルクはこの連続講義を振り返る中で、ボーアに救世主のような印象を抱いたと述べている。
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ハイゼンベルクが最初の教職に就いたのは、ゲッティンゲンにおいてだった。1922年、マックス・ボルンの助手となった。前任者はパウリ。ボルンはパウリの才能に、信頼とはいかないものの感心していたが、新たな助手はさらに優れ者だった。「冬の間、ハイゼンベルクにいてもらった(ゾンマーフェルトはアメリカにいたから)。パウリと同じくらい才能があるが、もっと性格が良い。ピアノもとてもうまい」とボルンはアインシュタインに書いている。パウリと対照的なハイゼンベルクは、ボルンの目に、「短い金髪で、澄んだ明るい瞳をして、愛矯のある表情をする、純粋な田舎の少年」と映った。
ハイゼンベルクは10年前のボーアと同じく、「量子論の困難がますますひどくなってきて、内部矛盾がどんどん悪化し、危機的な状況に陥った」大変な時期に、原子物理学の研究を始めた。ボーアの理論は、水素原子の問題に対しては奇跡を発揮した一方で、多電子原子の理論には力不足でたいした貢献ができなかった。そこでボーアを含めほとんどの理論家たちが、必死で新たな理論を探していた。ハイゼンベルクはゲッティンゲンのボーアのもとで員外講師として働いていたとき、その解決へ向けた大きな一歩を踏み出す。
新たな力学
ハイゼンベルクが突破口を切り開いたのは、パウリが排他原理を導いたのとほぼ同じころだった。パウリの考えでは、原子は定常状態を持つ細かい粒のような系で、電子は排他原理に従ってその定常状態を占めていくのだった。パウリの理論は、量子化という概念を大きく発展させた。プランクがエネルギー量子を導入し、アインシュタインが放射の量子、つまり光子の理論を構築し、ボーアが、量子化された定常状態で存在する原子という描像を導いていた。パウリは、定常状態を量子数によって列挙することで、これらの断片的理論の統一に乗り出したのだった。
しかし、量子数は4つあるというパウリの過程は、理論的導出と同じく経験的知識に基づいていたため、パウリの研究自体も理論体系としては断片的だった。量子数を、仮定するのではなく導くような、一般的な理論がどうしても必要だった。物理学者たちはいまだに、少数の数学的言明から出発して量子世界全体を包含するような、壮大な統一体系を探していたのだった。
その理論的な道筋に最初の着実な一歩を記したのが、ハイゼンベルクだった。ハイゼンベルクが手掛けた理論は、やがて原子の動的な仕組みに深く切り込んでいく。ニュートンの力学と肩を並べる原子力学だが、似ているのは形式的で抽象的な点だけだった。ハイゼンベルクは、レオン・ローゼンフェルトが「形式的な妙技」と呼ぶものを駆使して理論を組み立てていった。そしてアインシュタインと同じく、数学に創造の源を見出した。「審美眼とも言える形式的で、数学的な見方を使うのは、私にとって自然なことだった」とハイゼンベルクは言っている。
ハイゼンベルクは、単純な公理を出発点として数学的に理論を構築していくことで、ボーアの理論を悩ませていた落とし穴を回避した。そして、原子の中にある個々の電子の物理的状態に深入りすることなく、ニュートン力学とその拡張形の数学形式に似た動力学を巧妙に組み立てた。抽象的だがうまい方法で、通常の世界と原子の世界を橋渡ししたことになる。ボーアも以前にその橋を渡っていたが、違ったのは、原子内部の仕組みを惑星の軌道運動のような大スケールの物体の性質を使って視覚化したことだった。一方、ハイゼンベルクが架けた原子世界の橋は、形式的で完全に数学的なもので、原子内部のイメージを分かりやすく伝えてくれるものではなかった。
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このアインシュタイン=ボーアの聖典を、ハイゼンベルクは1925年に拡張する。ハイゼンベルクの解析法において、スペクトルの振動数(νmn)と合わせて用いられた第2の物理的要素が、この一連の遷移確率だ。定常状態mからnへの遷移確率Amnが大きければ、その遷移は起こりやすく、振動数νmnのスペクトルは強くなる。つまり遷移確率は、観測されるスペクトル線の強度を理論的に表したものということになる。
ハイゼンベルクは、遷移確率Amnと振動数νmnを使えば「フーリエ解析」(19世紀前半にジョゼフ・フーリエが熱の理論のために考案した)と呼ばれる確率した手法に似た計算ができることに気づいた。そしてニュートン力学におけるそれぞれの観測可能量に対する量子的物理量を、振動数と遷移確率の「フーリエ展開」によって導いた。
その後の発展により、一連の遷移確率は、状態1を第1行に、状態2を第2行に対応させた正方行列にまとめられる。全部で3つの状態が関係していれば、正方行列は、
   |A11 A12 A13|
   |A21 A22 A23|
   |A31 A32 A33|
となる。
ハイゼンベルクは、基本的に数学的手法であるフーリエの方法に従った。そして、行列を古典的変数に置き換えれば形式的にニュートン力学と似たものになるような動力学を探すことで、役に立つ原子力学へとたどりついたことになる。
戦争と余波
ドイツの偉大な物理学者や化学者の中には、国内にとどまる人も少なからずいた。ハイゼンベルクの他には、フリッツ・ストラスマンと共同で核分裂の発見に繋がる実験をおこなったオットー・ハーン、X線結晶学における研究で最もよく知られたマックス・フォン・ラウエ、そしてマックス・プランクがいる。すでに年老いていたが、以前と変わらず理想と高潔を守るプランクに、ハイゼンベルクは会いにいった。「プランクは、薄暗いものの居心地が良い古風な居間へ私を迎え入れてくれた。そこになかったのは、センターテーブルの上にぶら下がるオイルランプくらいだった。前に会ったときからかなり年老いたように見えた。目鼻立ちのはっきりした顔には深い皺が刻まれ、笑みを浮かべるのも苦しそうで、とても疲れているように見えた」
プランクは少し前にヒトラーと会い、ドイツの大学が崩壊しつつあることを理解させようとしたとのことだった。「我々のユダヤ人の同僚たちを追放してとてつもない損害を与えていること、そして、ずっと自分はドイツ人だと思っていて他の人と同じく人生をドイツに捧げてきた人たちを迫害するのが愚かで道義にもとることを、納得してもらえると思っていた」。しかし努力は無駄に終わる。「分かってもらえなかった。ああいう人間と話が通じる言葉などない」とプランクは言った。
     ・
ぞっとするような意味だが、ハイゼンベルクはまさに幸運な男だった。1944年にベルリンからハイゲルロッホに移った直後に、ヒトラーの暗殺未遂事件が起こる。企みは失敗に終わり、ハイゼンベルクの友人や同僚の何人かが逮捕され処刑された(プランクの息子エルヴィンも含まれていた)。ハイゼンベルクも、もしベルリンに残っていてSS(ヒトラー親衛隊)による調査と政権の要求に対する忠誠という「恩典」がなかったら、その命は大きな危険に曝されていたに違いない。
将来を見据え
金の鳥籠から解放されドイツへ帰国したハイゼンベルクは、再び現実に向かい、間違いなく安堵したことだろう。ハイゼンベルクは、ゲッティンゲンのマックス・プランク研究所(前カイゼル・ヴィルヘルム研究所)の所長となる。そして前世紀のプランクと同じく、戦後の荒廃状態からドイツの科学を立て直そうと、将来を見据えて必死に努力した。ゲッティンゲンの研究所の再建だけでなく、西ドイツ首相官邸では国内外の科学的問題に関して影響力を発揮した。研究対象は、以前と同じく最も基礎的な理論上の問題だった。1950年代からは、統一理論、すなわち一般的な場の理論の夢を追いかける。素粒子物理学全体を包含した基本的な波動方程式を見つけられるだろうと期待していた。何か有望そうなアイデアを思いつくと、それをいつものテスト、つまりパウリの批評に諮った。妻エリザベートハイゼンベルクは、その理論の意義を巡ってハイゼンベルクとパウリが激しく議論しあった凄まじい手紙のやりとりについて、次のように記している。「辛辣で容赦のない手紙だった。まさに戦いのようで、どちらかが一斉射撃すれば、もう一方から同じ激しさで撃ち返してきた。この『戦い』は第1ラウンドで決着がついた。最終的には[ハイゼンベルクが]自分の考えをパウリに納得させた」

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