じじぃの「人の死にざま_866_W・パウリ」

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Solvay Physics Conference 1927 動画 YouTube
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What are the Pauli Exclusion Principle, Aufbau Principle, and Hunds Rule? 動画 YouTube
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ヴォルフガング・パウリ ウィキペディアWikipedia)より
ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)はオーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。
アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
【生涯】
パウリはオーストリアのウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。
パウリはゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手として1年間過ごし、翌年にはコペンハーゲン大学理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)に滞在した。その後1923年から1928年まで、彼はハンブルク大学の講師を務めた。この時期のパウリの研究は量子力学の現代的理論の構築に寄与した。特に彼は排他律や非相対論的スピン理論の定式化を行なった。
1938年のドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年の第二次世界大戦勃発とともにユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。パウリは1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学理論物理学の教授となった。戦争が終わった1946年に彼はアメリカ合衆国帰化したが、その後チューリッヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。
パウリの排他原理 ウィキペディアWikipedia)より
パウリの排他原理とは、1925年にヴォルフガング・パウリが提出したフェルミ粒子に関する仮定である。パウリの定理、パウリの排他律、パウリの禁制などとも呼ばれる。 内容を要約すると、1つの原子軌道に属する2つの電子は、量子状態を決める4つの量子数の全部を共通には持ち得ない、というものである。
パウリの排他原理の起源は、N個の電子から構成される多電子系の波動関数、つまりN行N列のスレイター行列式にある。N行N列のスレイター行列式において同値の行か列が2つ存在する場合、N個の電子の内の2つが同一となるため、解が0となってしまう。このため、多電子系におけるパウリの排他原理の成立を、背理的に証明することができる。
ただし、パウリの排他原理はすべてのフェルミ粒子に対して適用される一方、ボース粒子はパウリの排他原理の拘束を受けない点に注意が必要である。

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『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
批評家としての科学者 ヴォルフガング・パウリ (一部抜粋しています)
パウリが量子論の問題と謎に初めて惹きつけられたのは、学生時代にゾンマーフェルトの講義を聴いたときだった。そしてすぐに、ゾンマーフェルトによるボーアの理論の精密な拡張の内容を深く理解し、それを水素原子の構造に複雑な形で応用した。その一方で、ボーア=ゾンマーフェルトの理論を批判し、同級生のヴェルナー・ハイゼンベルグには「すべて原子神秘主義だ」とこぼしていた。形式的な論証の奏でるハーモニーにきわめて敏感だった――数学的な絶対音感のようなものを持っていた――パウリにとって、当時の量子論は「混乱した状態」にあった。ハイゼンベルグに対しては次のように言っている。「誰もがまだ濃い霧のなか手探りで進んでいて、霧が晴れるにはかなりの年月がかかるだろう。ゾンマーフェルトは、実験によって新たなる法則が見つかるだろうと期待している。数字による繋がりがあると信じているようだが、ほとんど数秘術だ」。
ボーアによる最初の研究以降、量子の振る舞いを表す各状態は飛び飛びのエネルギーを持っていて、そのエネルギーは「量子数」と呼ばれる整数から計算できることが分かっていた。さらに、原子のエネルギーが変化する際には、2つの「定常状態」の間を「量子ジャンプ」することも知られていた、ボーアの1913年の論文から約10年の間、量子論の研究はもっぱら量子数を対象としていた。量子数に基づいて原子モデルを作る上でどうしても答えなければならなかった問題が、物理的化学的に観察される原子の挙動を説明するには、1つの電子状態に対して何個の量子数が必要かということだった。初め量子数は1つだったが(ボーアのモデル)、やがて2つ、3つと増えていき、最終的にパウリによって4つ必要であることが示される。
パウリは、原子中の電子が取りうる各状態に4つの量子数を割り当てれば奇跡のようにうまくいくことを発見した。このモデルの鍵となったのは、一個一個の電子がどのように量子数を選ぶのか決定する一連の規則だ。ボーアが導入した2つの規則は、原子中のどの電子にも同じ量子数の選び方が当てはまる。そして電子はエネルギーの低いほうの状態から先に占めていく。というもので、いずれもうまくいった。そこにパウリはのちに「排他原理」または「パウリの原理」と呼ばれるようになる原理を付け加えた。この原理は、原子や分子の理論だけでなく、それ以降のより複雑な理論の解明にも役立ち。より幅広く適用した。量子物理学にしては珍しい単純な仮定として、原子中の電子が占める状態を表す4つの量子数の組は、その電子に固有なものでなければならない。つまり、一個の原子中で。4つの量子数がまったく同じである状態を2つの電子が占めることはできない、とした。
その後の理論によって、このパウリの原理はどんな電子系にも適用することが示された。原子、分子、固体など、どこに電子が集まろうが、必ずパウリの原理に従って並んで行く。そばにいる2個の電子が、物理的にそっくりになって、まったく同じ量子数で表されて状態を占めることはできない。そのため電子は互いに避けあい、原子の中では同心円状の殻へと集合することになる。
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物理学の問題に対するパウリの理解力は、当時の人々の中でも抜きんでていて、おそらくアインシュタインもかなわなかっただろう。ボルンは次のようにふり返っている。「ゲッチンゲンで私の助手だったころから、パウリはアインシュタインにも匹敵する天才だと気づいていた。純粋科学の点から見れば、アインシュタインより偉大だったろう」。排他原理の体系化をはじめ、原子物理学や素粒子物理学におけるパウリの数々の重要な貢献は、現代物理学の大物たちによる成果と間違いなく肩を並べる。しかしパウリの全般的な偉大さは、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグには及ばない。

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