じじぃの「人の死にざま_240_シーボルト」

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - あのひと検索 SPYSEE
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『世界を変える100人の日本人!』 フォン・シーボルト 2010年4月9日 テレビ東京
◆オランダでニッポンを発見!世界初の「日本ツウ」はアノ人!!
ライデン市に向かったスタッフは、松尾芭蕉の俳句や菅原道真の短歌が壁に書かれている不思議なビル、さらに日本庭園を発見する。
この日本庭園にある銅像が、フォン・シーボルトだった。1823年に日本にやってきたシーボルトは、鳴滝塾蘭学を教える傍ら、日本のあらゆるものを収集。日本人女性と恋に落ちて娘が誕生するも、シーボルト事件で日本を国外追放させられてしまうのだ。
帰国した彼が訪れたのが、ライデン市だった。徳川家の兜や、入れ歯、ソロバン、飼い犬の剥製、さらにはシーボルト事件と深く関わる樺太の地図など、シーボルトが持ち帰った貴重な日本の物は、ライデン市内の博物館に展示されている。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
シーボルト (1796-1866) 70歳で死亡。 (一部抜粋しています)
文政6年長崎出島のオランダ商館にドイツ人の医者として赴任した彼は、西洋医学を日本人に教授する一方、日本について種々研究し、文政11年帰国しようとしたが、このとき幕府天文方の高橋景保から『クルーゼンシュテルン航海記』とひきかえに伊能忠敬の日本地図などを受取り、これを持ち出そうとしたのを間宮林蔵に密告され、高橋の獄死以下日本側の連累者50人の厳罰という非劇をひき起こした。いわゆる「シーボルト事件」である。
シーボルトも出国を禁じられたが、1年後許されて帰国したのち、大著『日本』その他日本研究の著作を刊行した。
37年後の、1866年(慶応2年)10月18日、ミュンヘンで死んだ。呉秀三の『シーボルト−−其生涯及功績』には、感冒にかかり、ついで血液中毒(敗血症)で死んだとある。

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