じじぃの「人の死にざま_204_フロイト」

あの人に会いたい ジークムント・フロイト SPYSEE
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Sigmund Freud Tribute 動画 YouTube
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ジークムント・フロイト フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジークムント・フロイトは、オーストリア精神分析学者。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。
精神分析の創始】
1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析と名づけた。

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『賢者たちの人生論 プラトンゲーテからアインシュタインまで』 金森誠也/著 PHP文庫 2009年発行
フロイト (一部抜粋しています)
ジークムント・フロイトといえば、だれしも『夢判断』を想起することであろう。この著書において彼は人間の精神生活にとって重要な無意識の欲動リビドーの中心は性欲だが、こうした無意識の世界の解明に役立つのは、夢の解釈であるとした。フロイトの『夢判断』が出版されたのは1900年、つまりニーチュが死亡した年である。世紀の終り目というのは大切である。ノストラダムスの大予言(1999年に恐怖の大王が襲うという大事件が起こるといった)ははずれたとされた。しかし1999年のわずか2年後の2001年9月11日にはアメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルなどがテロによって攻撃されるという大惨事が起きたではないか。すなわち2000年前後は大変な時期であったわけで、ノストラダムスの予言はおおよそあたっていたことになる。それにしても100年前、ニーチュの死、フロイトの『夢判断』の出版が相次いだこの1900年は、世界思想史上の大変革の年と見て間違いないと思う。ニーチュとフロイトは20世紀以降の世界精神史の大きな変革要素である。
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フロイトは文明が進むと性道徳がやかましくなり、そのために性の満足が得られない人々が神経症にかかると説いている。彼がこの論文を書いたのは1908年第一次世界大戦の前、貞淑なイギリスのヴィクトリア女王の時代のあとで、真面目一方の性道徳が欧米を支配した時代である。今では性道徳もそれほどきびしくなく社会の様子もかなり違ってきた。知識階級も同じである。しかし、あの頃は本節のはじめにフロイトが語っているように、芸術家は奔放な生活をした反面、学者には真面目一方の独身者が多かったようだ。フロイトはさらに次のようにのべている。
「少壮学者は禁欲することによっておのれの学業のための自由な精力を獲得できる一方、芸術家にあってはおのれの芸術上の仕事が自分の性的体験から強力に刺激されることもあるだろう」
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このように性生活が制限されると、当然性的不満が起こり神経症患者が続出する。彼らにあっては文明の要請に従い性衝動の抑圧に一時うまく成功したように見えることもある。しかし実は精神的に衰弱し、ノイローゼになると文明の発展に寄与することもできない。
さらにフロイトは普通の結婚をした男女もかならずしも満足な性生活を送っておらず中には神経衰弱になり、さらにろくな子供もも生まれないなどとのべている。文明の要請で性道徳がやかましくなったために生じた害悪についてフロイトはいろいろとのべているが、ただその解釈法としては人は性的に満足した夫婦生活を送るべきだと説いているくらいで、抜本的な対策を打ち出しているわけではない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
フロイト (1856-1939) 83歳で死亡。
1923年2月、精神分析学の創唱者ジークムント・フロイトは、満67歳の誕生日を前に、口中に白板症(ロイコブラキア)のひろがっているのを発見した。これははげしい喫煙者に生じ易いものであり、フロイトは大変な葉巻愛好者であった。
4月に彼は、家人に何も告げずに病院に行って手術を受けた。これが、以後16年にわたり、33回に及ぶ手術の第1回目であった。この白板症はガンに変化する公算の多い病気であり。以後彼は間断なくX線治療を受け、ラジウム照射を受け、その副作用の激痛にまた苦しむことになる。
その手術後の6月、彼は最も愛していた孫のハインツを小児結核のために失った。冷徹なフロイトが涙を流したのは、あとにも先にもことときだけであったといわれる。
果然、白板症は悪性腫瘍化した。彼は、口中の上顎、口蓋全部を切除され、鼻腔と口腔は1つになり、新しい人工顎と自人工口蓋と義歯をはめた。日常生活において、これをとりはずし、またはめるのが、毎日の一家の騒動となった。
以後、手術を繰返しつつ、一方で彼は『神経症と精神病』『幻想の未来』『続精神分析学入門講義』などの著作をし、また精神分裂の患者の治療行為に当たった。
1936年、80歳のとき、腫瘍は完全なガンに変り、彼はまた大手術を受けることになった。そのときの焼灼(しょうしゃく)手術で、彼は「もうこれ以上はたまらん」と大声でさけんだ。これが彼のもらした唯一の悲鳴であった。
1938年6月、ナチ政権のために、ユダヤ人の彼はその著作を焚書(ふんしょ)され、財産は没収され、79年住み馴れたウィーンをあとにロンドンに亡命のやむなきに至った。
その翌年からガンはいよいよ悪化し、7月になると漢字用鈍麻(アバシー)の徴候が現われ、8月にはガン特有の悪臭が病室を満たした。
そして9月23日夜半前、16年間にわたる闘病生活を、なんの感傷も錯乱もなく、不撓不屈の意志をもって耐え抜いた巨人は、はじめて主治医にモルヒネを請い、みずから「安楽死」をとげた。
ただしかし、心理学者の宮城音弥によれば、フロイト精神分析「ほんとうではないにしても、うまく考えたものだ」というイタリアの諺(ことわざ)を連想させるものがあるという。それならば一種の推理小説と同様ではあるまいか。・・・・ともあれ、フロイト自身はこれを真理だと確信して、上記のごとき偉大にして長い苦闘の人生を捧げたのである。

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