じじぃの「人の死にざま_620_M・ラヴェル」

モーリス・ラヴェル - あのひと検索 SPYSEE
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ボレロ bolero 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PQb9x6H3TlE
Toccata sur "Tableaux d'une exposition" de Yannick Daguerre, orgue saint Martin de Biarritz 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pPH4Udmair0
Maurice Ravel "Chanson des cueilleuses de lentisques" 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mYXughWIWVk
モーリス・ラヴェル ウィキペディアWikipedia)より
ジョゼフ=モーリス(モリス)・ラヴェルバレエ音楽ボレロ』の作曲や、『展覧会の絵』のオーケストレーションでよく知られたフランスの作曲家。バスク系フランス人。
【生涯】
1875年にフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれる。
1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たしたラヴェルは、1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。2回目の挑戦となった1901年にはカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった。
1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、フォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明した。
第一次世界大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲クープランの墓』を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまった。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。
1928年、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヵ月に及ぶ演奏旅行を行った。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、ラヴェル黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルの名声は世界に鳴り響いた。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。
アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲 ト長調』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲である。
ラヴェルは1927年頃から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名を頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。
1937年12月17日にヴァンサン教授の執刀のもとで手術を受けた。この手術は彼が一縷の望みをかけたものだったが、左半球の症状であるにもかかわらず、右半球を開頭し、萎縮した脳を膨らまそうとして水を注入するなど、ほとんど無意味なものだった。手術後、一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に息を引き取った。62歳だった。会葬にはダリウス・ミヨーフランシス・プーランクイーゴリ・ストラヴィンスキーらが立会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。
晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール・ラモリにあるラヴェルの最後の家は、現在ラヴェル博物館となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。
ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子供をもうけなかったため、ラヴェル家の血筋はエドゥワールの死(1960年)をもって永遠に途絶えた。

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ラヴェル 「ボレロ
クラブミュージックの元祖と呼ばれるラヴェルは、同じパターンをずっと繰り返す中で長いクレッセンドを延々続け、当初は大ブーイングだったという。
このように20世紀に入ると「芸術とはなんぞや」とといかけるアートな作品が増える中で、ジョン・ケージという作曲家の作った曲が一つの答えを出したとされる。
http://www.tv-asahi.co.jp/imadesho/backnumber/0009/
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ラヴェル (1875-1937) 62歳で死亡。(一部抜粋しています)
人をくっていて、しかも華麗な「ボレロ」を作曲したモーリス・ラヴェルは、小柄でやせてはいるが、おしゃれで、おすましやで、ストラヴィンスキーから「申し分のない優秀な時計職人」と評されたことがある。これは彼の冷徹な人柄と明晰な音楽を評した言葉である。
1932年10月、ラヴェルはパリでタクシーに乗っていて、その車が他の車と衝突した。かれは脳震蘯(のうしんとう)を起し、歯も2、3本欠けた。この事故以来、彼には完成した作品が1つもない。
翌33年夏、故郷の幼な友達の女性とともに海辺にゆき、石を海に投げようとして彼女に石をぶつけてしまう。彼は手足をコントロールすることができないことを知った。
この失行症は一時軽快したように見え、また発現し、徐々に悪化していった。次第に彼は、友人のだれかのことを話すのに、「彼は・・・・作曲家で・・・・奥さんが車を運転している・・・・」というような表現しかできないようになり、はては文字さえ忘れてしまった。
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それでも彼は事故以来5年の余命を持った。1937年、彼を診察した脳外科は診断した。「幼児からの頭蓋骨の拡張が年齢とともに増大している。これは脳水腫であることを意味している」
そこで、12月19日に手術が行われた。頭骸骨が切開されたが、脳に異常は見られなかった。
しかし手術後2、3時間して、彼はいちど目覚めたが、また眠りこみ、彼はふたたび目覚めず、12月28日の早朝に息をひきとった。
死後改めて、彼の病気は脳髄が萎縮するピック氏病であると診断された。自動車事故が原因かどうかはさだかでない。

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