じじぃの「人の生きざま_107_リー・クアンユー」

リー・クアンユー氏死去、91歳 シンガポール建国の父 2015.03.23 CNN.co.jp
シンガポールの首相を30年以上にわたって務め、同国建国の父と呼ばれたリー・クアンユー元首相が23日未明に死去した。
http://www.cnn.co.jp/world/35062124.html
リー・クアンユー - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A6%E3%83%BC/10558/
Lee Kuan Yew - Interview with Fareed Zakaria 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uLyPpUsNkAE
シンガポール旅行2013 Vol2 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LVdWjHKXJmc
ここが変だよ 日本の論点 縄文への道
いまシンガポールのリー・シェンロンも首相も靖国参拝に反対しているが、彼を含めてこの国の77%が華人系だということも知るべきで、一見開かれている国のようだが、反面この国は、強権的な政府権限を持っていることも知られている。この国の繁栄にはリー首相の父、前リー・クァンユー首相の「ルック・イースト(日本に学べ)政策」があった。しかも彼は日本の国連常任理事国入りに賛成している。彼らの硬軟併せ持ったしたたかな外交だとみることができるだろう。
http://joumon-juku.com/jihyou/2005_6.html
リー・クアンユー ウィキペディアWikipedia)より
リー・クアンユーLee Kuan Yew, 李光耀、1923年9月16日( - )は、シンガポールの政治家。現在、顧問相(内閣資政)。初代首相、前上級相などを歴任した。
初代首相就任以降、長期にわたり権威主義的政治体制、いわゆる「開発独裁」を体現し、独裁政権下ながらシンガポールの経済的繁栄を実現した。
【首相退任後】
1990年11月、ゴー・チョク・トンに首相の座を譲り、上級相となる。2004年8月、ゴーが上級相になったことにい、首相府内政顧問となった。人に勧められて警世のために回顧録を著し、また『日本経済新聞』「私の履歴書」に登場した(1999年1月分)。回顧録の邦訳は、日本経済新聞社から出ている。リー・クアンユー回顧録では原爆投下については「広島と長崎に原子爆弾が落とされなければ、数十万人に上るマレーとシンガポールの民間人や、日本人でさえも数百万人が犠牲になっていただろう。」と原爆投下を肯定するような事を述べている。
1994年に「つばを吐いたり、ガムを噛んだり、ハトに餌付けをしたりした、300万人のシンガポール市民を罰することの効果についての30年間の研究に対して。」との名目で、イグノーベル賞心理学賞を授与された。1996年に自らがディスレクシアである事を公表し、以来NPOによるディスレクシアへの支援活動に私財を投じている。
【評価】
1990年11月28日に自ら首相を辞任して以降も、同年にゴー・チョク・トン政権の上級相、2004年にはリー・シェンロン政権の顧問相を務める等、未だにシンガポールにおいては絶大な影響力を持っている。
首相時代は、人種差別への反対と男女平等を唱える傍ら、自らの保身と自国の経済的発展を何よりも優先し、学校教育において早期選抜を実施したり、国内における報道や発言の自由を規制した。これらの独裁的な国内統治の方法は内外からの多くの批判を受ける事となったが、シンガポール大韓民国中華民国(台湾)、香港と共に「アジア四小龍」の一つに数えられるほど、東南アジアを代表する経済大国にまで導いた功績が大きく、シンガポールの経済成長の恩恵に大きくあずかった中高年層からの支持が厚い。
日経の大林尚記者は、「民主政治は最大限に尊重されなければならない。だが国や国民が重大な危機に瀕している時は、民主的と言えないやり方にも羨ましさを感じることがある。」とシンガポールを評価している。

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『世界の「いま」がスッキリわかる! 逆さ読み世界史』 歴史の謎研究会/著 青春出版社 2011年発行
シンガポール アジア随一金融センターの礎はいかに築かれたのか (一部抜粋しています)
シンガポールと聞いて思い浮かべるイメージといえば、人によって意外に差があるのではないだろうか。
国の象徴たるマーライオン、ガーデンシティ、大規模な金融センター、グローバル都市、多国籍企業ハブ空港、マレー鉄道、ラッフルズ・ホテル…。
そんな多彩なイメージ同様、シンガポールは国家の性格も成り立ちも独特だ。面積は東京23区程度しかなく、人口はおよそ500万人。そのほとんどを中華系、マレー系、インド系の3つの人種が占めている。
東南アジアのほぼ中央にあるマレー半島の南端に位置しているため、古くから貿易港としても栄えた。この小さな国がアジア経済や金融市場において大きな役割を担っているのも、この立地が多いに関係しており、地理的・文化的の両面から「アジアの十字路」と呼ぶにふさわしいからだ。
現地の人にシンガポールの英雄は誰かと聞けば、おそらく多くの人が「リー・クアンユー」の名を挙げるだろう。彼は初代首相として近代シンガポールの礎を築いた人物だが、政治家のカテゴリーで分けるとすれば”独裁者”の部類に入る。
そのリーは客家(はっか)系に生まれ、1954年に人民行動党を結成した。政治スタイルはいわゆる「開発独裁」で、経済や国防、教育などあらゆる面においてレールを敷き、それを厳しく国民に従わせることで国家の発展を推し進めていったのだ。
独裁でもなおリーを国民が支持したのは、やはりその政治手腕の確かさだ。彼は自由貿易を拡大し、子供たちには高度な教育を施し、金融界と観光客の誘致の努め、東南アジアの小国をグローバル国家にまで引き上げたのである。