じじぃの「人の死にざま_339_L・ベークランド」

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How to Escape From Plastic Handcuffs 動画 YouTube
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レオ・ベークランド フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
レオ・ベークランド(Leo Hendrik Baekeland, 1863年11月14日-1944年2月23日)はベルギー生まれのアメリカ合衆国の化学者、発明家。合成樹脂「ベークライト」を発明、工業化に成功し、「プラスチックの父」とよばれる。
【来歴】
ベルギーのヘントで靴屋と家政婦の息子として生まれる。ベークランドはヘント大学で博士号を取得した後に、1889年にアメリカに移住した。
ベークランドは、アスベストの結合剤(その当時アスベストは天然ゴムで固められていた)の開発に着手した。そして、1907年にフェノールとホルムアルデヒドの反応時の圧力と温度を制御することで、完全な人工合成樹脂「ベークライト」の合成に成功し、その特許を取得した。
フロリダの広大な住宅の庭を造園することに熱中するようになった。1944年、ベークランドはニューヨーク州ビーコンの療養院で脳溢血のため亡くなった。ベークランドはスリーピーホロー墓地に埋葬された。
1978年にベークランドは発明者殿堂 (National Inventors Hall of Fame) 入りした。
【ベークライト】
ベークライトは製造の過程で爆発の危険があるなどしたため、その後、改良されたプラスチックが普及し、1960年代には姿を消すことになった。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫/訳 1999年発行
【化学者】レオ・ベークランド 【執筆者】アイバン・アマート (一部抜粋しています)
映画『卒業』は、主人公のベンジャミン・ブラドック(まだ若いダスティン・ホフマンが演じていた)が、彼のために両親が開いた卒業記念パーティーに集まった裕福な南カリフォルニアの客たちを、いかにも不慣れにもてなしているシーンから始まる。その場面で、家族ぐるみで付き合いのある知り合いが、20世紀の映画史上もっとも有名なアドバイスをベンジャミンにする。「君にひと言だけ言っておこう。たったひと言だ。『プラスチック』」
そのせりふに、多くの観客がたじろぎ、苦笑した。60年代末、自分の周囲がどんどん化学合成物質で埋められていくことに対して観客が抱いていた複雑な心境を、うまくとらえていたからだ。彼等は安価な、掃除のしやすいフォーマオカ塗りのカウンターを気に入っていたが、同時に、大理石や木の本物が持つ手触りと普遍性をうらやみ、あこがれた。『卒業』のそのせりふの引き起こした感情は、1907年の夏にレオ・ヘンドリック・ベークランドが、わたしたちの世界を形作っている材質を変えてしまうような大躍進を達成してから、60年間でいかに大きな変化が起こったかを裏づけていた。
ベルギー生まれの化学者兼起業家ベークランドは、金になる技術に目をつける才能があり、1890年代には、ベロックスを発明して、最初の成功を収めた。ベロックスはそれまでの写真の印画紙を改良したもので、その登場によって感光に日光を使う必要がなくなった。写真家はベロックスを使えば人工の光ですますことができたのだが、当時それはガス灯を意味し、すぐに電灯にとって代わられた。日光よりもずっと信頼性があり、また作業もしやすかったのだ。1899年に、カメラと現像サービスによって写真を一般家庭に浸透させたジョージ・イーストマンがベロックスの権利一式を買い取ったが、その値段は当時としては破格の100万ドルだった。
突然の収入により、ベークランド、妻のセリーヌ(ニックネームは「ボンボン」)、そしてふたりの子供は、ニューヨーク州ヨンカーズの北にあるハドソン川を見下ろす豪邸、スナグロックに引っ越した。彼は納屋を実験室に改造し、次の大ヒットのための材料をあさり始めた。すぐに、伸びざかりの電機産業が求めている、絶縁材こそが次の目標だという結論に達した。
ベークランド(人々は彼をドク・ベークランドと呼んでいた)が最初に注目したのは、セラックの高騰だった。ラックカイガラムシが樹木に貯蔵するこの樹脂質の分泌物は、何世紀も前から南アジアで家内工業的に生産されていた。農民はそれを熱してろ過し、木製品のコーティングや保護のための仕上げ剤を作った。しかしまた、セラックは電気の絶縁材のすぐれた原料でもあった。初期の電気技師たちはそれを絶縁のためコイルに塗ったり、セラックを染みこませた薄紙を何枚も重ねて張り合わせ、絶縁材を作った。
20世紀初頭、電化が急速に始まった時、セラックの需要はすぐに供給を大幅に上回るようになった。ベークランドは間もなく、セラックの交替品を合成できさえすれば、またとないチャンスがめぐってくることに気づいたのだ。
とはいえ、だれかに先を越されていてもおかしくなかった。1872年にはすでに、ドイツの化学者アドルフ・フォン・バイヤーがフェノール(コールタールを蒸留して得られるテルピンチンのような溶媒。ガス灯産業はこれを大量に生産していた)とホルムアルデヒドメチルアルコールを蒸留して作る防腐剤)を反応させた後のガラス容器の底にできる、始末に負えない残留物を調べていた。しかし、フォン・バイヤーが求めていたのは新しい合成染料であって、絶縁体ではなかった。彼にとって、ガラス容器の底にたまったその醜い、不溶性のどろどろした物質は、失敗の印だったのだ。
生まれたばかりの電機産業でひともうけしようとするベークランドとそのライバルたちにとって、そのどろどろした物質は成功への大きな道しるべだった。ベークランドたちは、成分と熱と圧力の微妙な比率を割り出すことで、セラックに似た、しかしより加工に適した物質を見つけようとした。溶剤に溶け、絶縁塗料としても使える一方、ゴムと同じように鋳型に流し込んで形がつけられるものが理想的だった。
1904年ごろ、ベークランドとその助手は研究にとりかかった。3年間、何冊もの研究ノートを実験の失敗の記録で埋めつくした後、ベークランドはとうとう、みずからベークライトと名づけた物質の開発に成功した。秘訣は、彼が作った「ベークライザーにあった。これは想い鉄製の容器で、圧力鍋と地下室のボイラーを組み合わせたような代物だった。これを使うと、それまでにだれも成し得なかった精妙さでホルムアルデヒドとフェノールの反応を制御できた。
フェノールとホルムアルデヒドを(反応を促進するための酸や塩基といっしょに)熱すると、セラックに似た、コーティング材に適したニスのような物質ができた。さらに熱を加えると、溶液はねばねばした接着性の物質に変わった。ベークランドがこれをベークライザーに入れると、硬くて半透明で、自由に型に流して型のつけられる物資ができ上がった。つまりプラスチックだった。
ベークランドは特許申請すると、発明の噂をほかの化学者に流し始めた。そして1909年、アメリカ化学会ニューヨーク支部の会合で、世界で初めての完全合成プラスチックを発表した。未来の顧客たちはそれが、成形された絶縁材、バルブの部品、パイプ、ビリヤードの球、ドアノブ、ボタン、ナイフの柄、そのほかあらゆる製品になることに気づいた。
まさに20世紀の錬金術だった。コールタールのように気味の悪いものから、驚異的に応用が利く物質が生まれたのだ。とはいえ、それが始めてのプラスチックというわけではなかった。セルロイドは何十年も前から、べっこう、角、骨などの代用品として、市場に出回っていた。このような、上質で伝統的な素材の安価な模造品として評価をえていたセルロイドはしかし、科学的処理をした綿その他、セルロースを含んだ植物性の素材から作られていた。これに対しベークライトは最初から最後まで実験室で作られた素材だった。それは100パーセント化学合成された素材だった。
ベークランドはゼネラル・ベークライト社を設立し、ベークライトの製造とライセンス供与に乗り出した。競争相手はすぐに模造品を市場に送り出した。中でもレッドマノルとコンデンサイトが有力で、コンデンサイトはトーマス・エジソンが生まれて間もないレコード業界を「割れない」レコードで席巻しようとして失敗した素材だった。ベークライトの模造品の横行によって、20世紀初頭版の「インテル入ってる」にあたるロゴが生み出された。本物のベークライトを使った製品は、ベークライトの名前入りの「本物の印」がついていた。長引く特許戦争の末、ベークランドはライバル企業と交渉して合併し、とうとう真のベークライト帝国の王者の座についた。ベークライトはどこを見渡しても目につくようになり、会社は「1000の用途を持った素材」として宣伝した。実際、葉巻きホルダー、数珠玉、ラジオのケース、ディストリビュータのキャップ、電話機のケースなどあらゆるところで使われるようになった。1924年の『タイム』誌はベークランドをカバーストーリーで取り上げ、ベークライトの可能性を熟知している人々が「数年のうちで近代文明のすべての機械設備に使われるようになるだろうと予測している」と書いた。
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ベークランドの死後1年たった1945年、米国のプラスチック総生産量は40万トンに達した。『卒業』の12年後の1979年、プラスチックの年間生産量は、産業革命のシンボルである鉄鋼を追い抜いた。1998年の総生産量は約4700万トンだ。今日、歯の詰め物からコンピュータ・チップ(シリコンの代わりにプラスチックを使った、もっと柔軟にたわむことのできるトランジスタの研究が進んでおり、巻物のように居間の壁につけて巻き上げることができる、平面テレビのような驚くべき生本が登場するかもしれない)まで、プラスチックはどこにも使われている。その一方で、もはや1967年当時ほどひどく言われてはいないかもしれないが、相変わらず好き嫌いの激しい対象物であることには変わりがない。食料品店の店員が「紙袋になさいますか、ビニール袋になさいますか」と尋ねるたびに、客は、答えるまでの一瞬に、古いものと新しいもの、自然素材と合成素材、自然分解可能かそうでないか、どちらを選ぶべきか、壮大な論議を静かに胸の内で繰り広げるのだ。

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