じじぃの「人の生きざま_36_ペレ」

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ペレ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』  (一部抜粋しています)
ペレことエジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Pele, 1940年10月23日 - )は、ブラジルのミナス・ジェライス州トレス・コラソンエス出身の元サッカー選手。アフリカ系ブラジル人。
【サッカーの王様】
生涯で1281ゴールを記録するというその実績から、「20世紀最高」、あるいは「サッカー史上最高」と評される選手。「サッカーの神様」、「サッカーの王様」と称される。
171センチと小柄であるが身体能力が抜群で、バランス感覚に優れ自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約される。
また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていた。その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあった。
【ブラジル代表及びFIFAワールドカップ
ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳であった。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し世界中を驚かせた。
ワールドカップでは、「ヨーロッパ大会では南米勢は優勝できない」、というジンクスがあるが、スウェーデン大会で唯一このジンクスを破ったのがペレである(当時の時点でワールドカップにおいて「開催国は強い」という傾向があったことから、スウェーデンが優勝する事が予測されたが、ペレの技がそのジンクスを上回った事になる。その上手さは、ペレがゴールしたとき、スウェーデンのディフェンス陣が、余りにも見事に抜かれたためペレの元へ祝福に駆け寄った、という逸話がある)。
その後1962年のチリ大会と1966年のイングランド大会、1970年のメキシコ大会の計4大会に出場し、1958年スウェーデン大会と1962年チリ大会、1970年メキシコ大会における3度の優勝に大きく貢献した。歴代最多記録の代表通算77ゴールを記録している。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー・ヒーロー 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【驚異の天才】ペレ 【執筆者】ヘンリー・キンシンジャー (一部抜粋しています)
ヒーローはひとりで生きてゆく。だが、彼らがわれわれすべての人生を高揚させ、その心に触れる時、彼らは神話になる。サッカーを愛する者にとって、エジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント、通称ペレはまさにヒーローだ。
どんなスポーツでも、高いレベルで活躍するということは、普通の人間のスケールを超えることだ。しかしペレの活躍は、スター選手が普通の選手の活躍の上をゆくのと同じように、普通のスター選手の活躍の上をいっていた。彼は、出場したすべての国際試合で、平均1ゴールを挙げている−−これは野球選手で言えば、15年以上毎年ワールドシリーズに出場して、毎試合ホームランを打つのに相当する。1956年から74年にかけて、ペレは合計1220得点を記録した−−これは15年間、毎年平均70本のホームランを打つようなものだ。
彼が現役の間、4年ごとに開催されるワールドカップ(W杯)で、ブラジルは12年間に3度優勝した。ペレは1試合に5得点を挙げたことが6回、4得点が30回、3得点が90回ある。そして、それを−−現代の多くのスター選手がそうであるように−−ひとり超然と、尊大な態度でやってのけるのではなく、周囲の人にも伝播するような陽気さでゴールを決めたので、打ち負かされた相手チームでさえ、彼の喜びにつられて一緒に喜んでしまうほどだった。というのも、張り合う気になどなれない天才の中の天才に敗れたからといって、不名誉でも何でもないからだ。
彼は、大都市の並ぶブラジルの沿岸部から離れた山間の、トレス・コラソンエスという貧しい街の生まれた。家族からはディコという愛称で呼ばれたが、サッカー仲間からはペレと呼ばれていた。その名前の由来は忘れてしまったという。ディコは靴磨きをしていた11歳の時、ブラジルのトッププレーヤーのひとり、バルデマル・デ・プリトに見いだされた。4年後、デ・プリトはペレをサンパウロに連れて行き、サントスのプロチームの幹部に向かって、「この少年は世界最高のサッカー選手になる」と宣言した。しかし、だれもデ・プリトの言葉を信用しなかった。ペレはすぐに注目を浴びた。翌シーズンには、リーグの得点王になっていた。ロンドンの『タイムズ』紙は後にこう書いている。「ペレの名はどうつづるのですか。G-O-Dですか」と。ペレは戦争を停止させたことでも知られる。1967年、ナイジェリアの内戦の両当事者は、ペレが首都ラゴスでのエキシビション・マッチでプレーできるように、48時間の停戦を呼びかけた。
サッカーにおけるペレの役割を理解するためには、この競技の性質について多少論じておく必要がある。チームスポーツで、サッカーほど根源的な、人類共通の情熱を呼び起こすものはない。W杯の期間中、自分の国の代表チームの試合のテレビ放映のスケジュールは、生活のリズムの中に組み込まれる。昨年、わたしは、ロンドンの落ち着いた雰囲気のスペンサー・ハウスで、英国の上流社会の名士たちと世界中の著名なゲストが一堂に会する、ある晩餐会に出席した。主催者は運悪く、イングランドとアルゼンチンの試合がある夜を選んでしまった−−もともと宿敵同士だった上に、フォークランド紛争の記憶がこの試合の宿怨に輪をかけていた。申し分なく立派な出席者たち(あるいは少なくとも、主催者側を動かせるだけの影響力を持った出席者たち)が、レセプションと晩餐会の最中にも中継が見られる位置にテレビを設置してほしいと強く要求した。試合が延長戦に入り、PK戦にもつれ込んだおかげで、その日の主賓の挨拶が始まったのは午後11時になってからだった。しかもイングランドが負けたので、会場はただただ沈痛な雰囲気に包まれていた。
フランスがついにW杯で優勝した時、パリでは喜びのあまり48時間近く都市機能がまひし、ブラジルでは落胆のあまり、同じくらいの時間まひ状態に陥った。チリで開催されたW杯でブラジル代表が優勝した1962年、わたしはブラジルにいた。あらゆるものが2日間ストップし、リオは早過ぎるカーニバルを祝った。
米国にはこれに匹敵しる現象はない。わが国のファンがこのように一体化することがないのは、ひつとには、アメリカの団体競技が、もっと理詰めの知性に訴えるもので、素人が到達できない高度な技術を要するからだ。たとえば野球には、さまざまな異なる技術が要求される。時速145キロの投球を打ったり、弾丸のような速さで飛んでくるボールをキャッチしたり、遠くまで非常に正確なボールを投げたりする技術である。(アメリカン)フットボールでも、11のポジションそれぞれに異なる技術が必要とされる。
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サッカーはそれとはまったく別の種類のゲームだ。11人の選手は全員、同じ書類の技術を身につけていなければならない−−攻撃に出る選手と守備に回る選手の区別がなくなってしまった現代サッカーでは、なおさらだ。試合は切れ目なく続くので、フットボールや野球のように、いくつかの部分から構成されるプレーの連続に分解していく手法は、このスポーツには向かない。野球やフットボールのスリルは、反復の極致にあるが、サッカーのスリルは、絶えず要求される戦略の変化にその場その場で対応していくというその即興性にある。サッカーには一足の靴のほかは、ほとんど装備が要らない。だれでもサッカーができると思っている。そして何人でも即席のゲームができる。だから、北米以外の地域ではサッカーが真の大衆スポーツになっているのだ。大衆はサッカーの情熱や、その突然の勝利、その反対にある幻滅を、自分と重ね合わせる。野球やフットボールは人間の体験の素晴らしさの称揚であり、サッカーはそれらとの一体化である。
それゆえにペレは、野球やフットボールのスター選手とは別の驚異的天才なのだ。サッカーのスター選手は、自分のチームの中で抜きんでた存在でいながら、チームに依存している。サッカー選手として神話になる資格を獲得するのがとりわけ難しいのは、トップレベルで活躍できる期間が、概してきわめて短いからだ−−サッカーのトッププレーヤーとして5年以上活躍できる選手はほんの一握りだ。信じ難いことに、ペレはそのトップレベルで18年間活躍し、17年目の1973年には52得点を挙げた。現代のサッカーのスーパースターたちは、1シーズン50得点も揚げていない。それでも、年間100得点以上3度達成したペレにとって、それは引退の潮時を意味した。
ペレが神話になる資格を得たのは、ブラジル代表チームの特徴を彼なりに体現していたからでもある。ブラジル代表チームのスタイルは、喜びが伴わなければどんなに素晴らしいものでも価値はないという考え方を肯定するものだ。代表選手たちは、常に一番うまいとは言えないまでも、この上なく曲芸的なプレーを見せる。ブラジルチームは、楽しさのあふれるプレーをし、それが周囲にも伝染する。黄色いユニホームが攻撃を仕かけ−−試合時間中のほとんどがそうだ−−そして、彼らのファンが陶酔を誘うようなサンバのリズムに合わせて応援する時、サッカーは流麗かつ優美な儀式になる。ペレの全盛時代、ブラジル人はサッカーに夢の縮図を見た。
わたしは全盛期のペレを一度だけ、1970年のW杯の決勝戦で見た。ブラジルの対戦相手だったイタリアは、ディフェンスをしっかり固めた上で不意を突いて反撃に出るというカウンターアタックの戦術を用い、一対一の同点に持ち込んで、ブラジル人をやきもきさせていた。イタリアは守りをしっかり固め、あせった敵側がミスを犯し始めて自滅するのを待つはずだった。しかし、ペレ率いるブラジルは意に介さなかった。イタリアチームなど練習相手だと言わんばかりに、激しく攻撃をかけ、ブラジルは4対1で圧勝した。
その後、わたしはニューヨーク・コスモスでプレーしているペレを数回見た。もはや往年のスピードはなかったが、相変わらず喜びにあふれていた。そのころのペレはすでに名物になっていた。現代のファンのほとんどは彼のプレーを見たことはないが、何となく彼が自分たちの人生の一部だと感じている。彼はスーパースターから伝説的な人物になったのだ。

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