じじぃの「人の生きざま_10_柳生・博」

あの人に会いたい 柳生博 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%8D%9A/6041/
信州 八ヶ岳倶楽部にて 動画 ひまつぶしサイトポチポチ
http://movie.pochi2.info/video/watch/9f50e032c2eb791e?kw=%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%8D%9A&page=1
柳生 博『八ヶ岳倶楽部
http://www.ngy.3web.ne.jp/~everg/midokoro/yagyu.html
わたしが子どもだったころ「俳優 柳生博 2009年11月13日 NHKネットクラブ
俳優・柳生博は1937年、茨城県生まれ。厳格で思慮深い祖父の影響を受けて育った。「男の子は13歳になったらひとり旅に出る」という柳生家代々の家訓に従い、60年前、旅先に選んだのは八ヶ岳無人駅で野宿しながら1ヵ月を過ごした。そこで、満州から引き揚げてきた元満蒙開拓団の青年に出会う。「戦争は間違いだった」と、少年は衝撃的な話を聞く。荒野を開拓するたくましさに触れた。
http://blog.goo.ne.jp/0616hajimemasu/e/80ddc4b46db71923bff13bf1028ba9d1
週刊朝日 10/9号
週刊図書館 『八ヶ岳倶楽部Ⅱ それからの森』 柳生博/著 講談社 【執筆者】朝山実 (一部抜粋しています)
柳生さんが八ヶ岳に移り住むことを決めたのは40代に入ったころ。ナイスミドルともてはやされ、年に500本もの仕事をこなし、自分を見失いそうで怖かったからだ。
「役者やっていると、不相応なお金が入るんですよ。コマーシャルとかの。それは、荒れた林を買うことに費やしましたね」
八ヶ岳倶楽部Ⅱ それからの森』は八ヶ岳で「雑木林の再生」に力を注いてきた30年間の記録である。
日々のエッセイにとどまらず、人工林と雑木林との違いなど、森の生態系についての解説がわかりやすい。
「俺んちは昔、地主で。地主って何をやるかといったら、里山の管理人なんですよね。だから、野良仕事は俺、お手のものでね」
柳生さんは、あの柳生一族の子孫だ。
鬱蒼としたアカマツの森を間伐し、白樺などを植林。枝打ちし、光と風の通りをよくすると、多様な植物が自生し、花が咲き、虫が来て鳥が歌うようになった。
美しく蘇った森をひとにも見せたい。森の中にレストランとギャラリーを併設した「八ヶ岳倶楽部」を開いて20年になる。
東京から最寄り駅「甲斐大泉」まで列車で3時間。周囲に観光名所があるわけでもないが、年間10万人もの人が訪れる。
「だからって、僕に会いに来ているわけではないんだよ。ここの主役は雑木林。それを見にきたら、『あっ、いた』というくらいなもの」
何はさておき「主役」の森を案内してもらった。
枕木を横に敷いた道の先に、縦2列に枕木をつなげた細い道があらわれる。
「狭いと、自然と足元を見るでしょう。そうすると下の草に気が付く。そんなことを考えつくともう眠れなくなる、うれしくてね」
お客さんから訊ねられるや、「これは舞鶴草です。鶴が舞うとき羽のようになっているでしょう」
しかし多くは説明しない。薀蓄(うんちく)は語らず。スタッフにもそう言っている。
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オープンから5年間は「もう辞めよう」と思う毎日だった。
ノウハウに頼らない。新人作家の作品を展示するギャラリーや散策の道など「おもてなし」スペースを手作りで拡張するうち、森に惹かれ若い人が手伝いにやってくるようになった。
現在は、人出の多い夏場にはアルバイトを含め20人近いスタッフが働く。
「ただし、ここで働くには才能が必要なんです」
虫や獣が嫌いじゃないのと、共同生活ができるかどうか。
1年間は寮住まいが基本。個室は与えられない。都会のように遊ぶ場所がない。だから居着く若者にも、自然と倶楽部のカラーが出る。
「スタッフで、ひとと話すのが苦手だった子がいまは、いちばん走り回っている」
「パパさん」が愛称。頭の中には、それぞれの経歴が入っている。
「ここをつくったのは俺だけど、続いたのは俺の意思じゃない。皆がいたから」
スタッフへの助言も、変わっている。「ここで長く勤めようとは思うな」「儲けるな」。そこがまた人を集める源にもなっている。