じじぃの「神話伝説_52_創世記(ユダヤ教)」

NHK 100分 de 名著 : 旧約聖書 1/4 : ユダヤ民族の成立 動画 dailymotion
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創世記 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=QUblZIDV_SI
映画「天地創造」 The Bible In the Beginning... - Theatrical Trailer 動画 dailymotion
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筑摩書房 一神教の起源 ─旧約聖書の「神」はどこから来たのか / 山我哲雄 著
●それは信仰「革命」だった
もともとイスラエルもユダも、古代オリエント世界の辺境に存した弱小国家に過ぎず、権力や覇権とはほとんど縁がなかった。その小さな国家が滅び、新バビロニア帝国の圧倒的な支配のもとで「ヤハウェの民」が最も非力で悲惨な境涯にあった時に、彼らの中から唯一神観が生まれた。それは、弱い者が生き延びるための知恵であった。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480015815/
エゼキエル36章・荒廃した地がエデンの園のようになる 聖書の描く地球の今と将来
エデンの園とは、初めにエホバ神が最初に人間アダムとエバを置かれた地上のパラダイスです。(創世記2:15)
エゼキエル36章の預言は、過去において、バビロンによって荒廃させられたイスラエルの土地にまず成就しました。西暦前607年にユダとエルサレムはバビロンの攻撃を受け、イスラエル人は剣で殺されたり、バビロンに連れ去られたり、周囲の諸国家に逃げたりしました。そのために、イスラエルの土地には、人が住まなくなり、70年間荒廃しました。(歴代第二36:21)しかし、エホバはそこの土地がエデンの園のようになり、そこに住む人々が増えることを預言していました。(エゼキエル36:35,37)
http://d.hatena.ne.jp/littleyohane/20121126/1353893818
天地創造 ウィキペディアWikipedia)より
天地創造とは、厳密にはユダヤ教ヘブライ語聖書、キリスト教旧約聖書『創世記』における世界の創造のことを指す。宗教絵画などでよく題材となる。
天地創造の流れ】
ユダヤ教キリスト教聖典である旧約聖書『創世記』の冒頭には、以下のような天地の創造が描かれている。
・1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
・2日目 神は空(天)をつくった。
・3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。
・4日目 神は太陽と月と星をつくった。
・5日目 神は魚と鳥をつくった。
・6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
・7日目 神は休んだ。
【年代推定の歴史】
1654年に、英国国教会アイルランド大主教ジェームズ・アッシャーとケンブリッジ大学副総長ジョン・ライトフット(英語版)が聖書の記述から逆算し、天地創造は西暦の紀元前4004年10月18日〜24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前4004年10月23日午前9時と算出し、長らくキリスト教圏ではこの年代が信じられてきた(旧約聖書モーセ五書に登場する族長全員の寿命を加算して算出したもの)。 その他にも天地創造の年代には諸説ある。

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旧約聖書 創世記 第1章
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
http://www12.ocn.ne.jp/~sokkidou/sokkig_01/0101_0131.html
『神の発見』 五木寛之、森一弘/著 平凡社 2005年発行
この世のはじまりは廃墟のようであった (一部抜粋しています)
  聖書を、苦しんでいる人間の視点から読み返していくと、隠れているメッセージが見えてきます。
五木 見る視点の位置で、違った意味に読めるんですね。
  たとえば、聖書のいちばん最初、「創世記」の1章は、「地球は混沌であった」という言葉ではじまっていますね。この、「地は混沌であった」という文章ですが、原文では「ワボーフー・トーフー」という言葉なんです。
五木 それは、どういう意味なんですか。
  私は「無秩序、廃墟のようであった」と訳せばよいと思っています。この言葉がひんぱんに出るようになるのが、紀元前6世紀、バビロンの捕囚の時期です。村や町が徹底的に破壊されて、廃墟のようになった。そうした状態を表現するのが「ワボーフー・トーフー」という言葉だったのです。廃墟のような状態から、神が素晴らしい世界を創った。しかし、それを人間がめちゃくちゃにしてしまった、というメッセージがそこにあります。
五木 いまの廃墟とか、無秩序という言葉ですぐに連想するのは、アフガニスタンですね。かつては、シルクロード桃源郷といわれていたところで、果物は多くとれるし、ケシの花が一面に咲き乱れていた。私は昔の絵を見たことがあるんですけど、これがあのアフガニスタンかと思うくらい、大きい丘陵一面に青紫色のアザミの花が咲き乱れているんです。瑠璃玉(るりだま)アザミというんだそうですが、そういう花が咲き、果実が実る土地であったのに、わずか80年で、いまの荒涼たる瓦礫の砂漠と化してしまったわけです。だからなにか、そういうところに、最初の信仰の灯(ひ)がともるというのが、本当は私たちが考えている神仏の物語なんですが。
  ええ、そうですね。
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五木 いま、聖書の書き出しは、混沌からはじまるとおっしゃいましたが、混沌という言葉は、なにか中国の道教的な感じがします。道教では、混沌とは生命の源なんですよね。非常に肯定的にとらえるんです。しかし聖書の場合は、そうではなくて、荒涼としたものなんですね。
  ええ、聖書は、人間のどうしようもない罪深さと、悲しさを、浮かびあがらせようとしているのです。
五木 ああ。
  「創世記」の2章では、人間は、土の塵(ちり)から創られたことになっています。土とはむなしさ、もろさの、そして塵は、悲しみや喪(も)のシンボルです。「土の塵」、つまり人間の内に、もろくはかなく崩れていく可能性があるということです。自分自身でも、どうすることもできない現実が、人間の内にあるということ。それをさらに加速させるのが、人間の暴力性とか、エゴイズムとか、欲望ということです。それがアダムとイヴの物語になります。
五木 ふと、思い出すことがあるのですが、私は子どものころ、父親が国語と漢文の教師だったので、『日本書紀』とか『古事記』などを、小学校にあがる前から座敷に座らされて、素読というか、暗唱させられたんです。「あめつちのはじめのとき、まずなみなりませる神のみなは」とかね。
 神様の天地創造のとき、その人たちが、あしかびのごとくに、どろどろになっているところに、矛(ほこ)を刺してかきまぜて、鳥ができ、あれができ、これができるんですね。「あしかびのごとく」というところが、本当に無秩序と荒涼としたものを想像します。なんて聖書と似ているんだろうと思ったことがありました。
  私は、すべての人のこころの根っこに、この世界は、どうしてこんなに悲しく辛(つら)いものになってしまったのか、という根源的な問いがあったんだろうと思うんです。どうして人間は、こんなに苦しまねければならないのだろう。どうすれば、自分たちの生活の辛さや、悲しみをこえる、希望の光を見出せるだろうか、そういう問いがあったと思うんです。
五木 なるほど。世界存在の原点というか、出発点を、肯定的なプラス志向のイメージでとらえるか、あるいは、世間でいうマイナス志向のイメージでとらえるかというと、私は、いまおっしゃったように、荒涼とした無秩序、暗黒、そこに光がさしてくると考えるわけです。はじめに光ありき、というふうには考えられない。そうすると、人間存在の、世界存在のいちばん最初は、黒くて暗くて、なんともいえない闇が最初にある、というふうに考えてしまうんです。それは物事をネガティブに考えるからだ、とよくいわれるところなんですけれども。
  「創世記」の天地創造の話のあとに、アダムとイヴが楽園から追放される物語、そのあとに、兄貴が弟を殺してしまう。カインとアベルの物語がつづきます。この世界が、人間の欲望と、エゴイズムによって、非常に住みにくい世界になっていくという流れになっているんです。神がすばらしい世界を創ったにもかかわらず、世界は最終的に、闇におおわれてしまう。そうした、絶望的状態を語りながら、救いはどこにあるのか、そういうテーマになっていくんです。

じじぃの「アッラーの御心のままに・天国へ行くための努力!イスラムを知ろう」

イスラム教徒とはどんな宗教か。(日) 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=NMb9gkYzzzM
イスラム国(IS)とは何か?【よくわかる中東問題①】 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=nGTzBcsaT9s
後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 2015年2月1日 朝日新聞デジタル
新たに公開された動画の題名は「日本政府へのメッセージ」。
後藤さんとみられる男性がひざまずき、横にはナイフを持った黒ずくめの男が立っている。男が英語で、日本が「イスラム国」と戦う連合に参加したことを理由に後藤さんを殺害するなどと語り、最後に「日本にとっての悪夢を始めよう」と言って、後藤さんの首にナイフを突きつける場面で映像が暗転。その後、男性の遺体が映し出される。
http://www.asahi.com/articles/ASH1T5RC5H1TUHBI01G.html
六信五行 - 日本アハマディアムスリム協会・ナレッジサイト
クルアーンに啓示されているムスリムの義務。
六信とは、『アッラー』、『天使』、『啓典』、『預言者』、『来世』、『定命』を信じること。
五行とは、ムスリムイスラム教徒)に課せられた五つの義務行為のことである。
1. 「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒である」という信仰告白(シャハーダ)を行う。
2. 夜明け、正午、午後、日没、夜半と1日5回の礼拝を行う。
3. 年収から一定額の喜捨(ザカート)をする。
4. イスラーム暦第9月のラマダン月に、夜明けから日没まで一切の食物並びに水を口にしない。
5. 第12月の巡礼月に(定められた方法で)メッカへ巡礼する。
http://www.ahmadiyya.jp/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99/%E5%85%AD%E4%BF%A1%E4%BA%94%E8%A1%8C/
プライムニュース 「“宗教戦争”なのか? 過激派 イスラム国 米を敵視の根本に何が」 (追加) 2015年4月21日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】井上順孝國學院大學神道文化学部教授)、臼杵陽(日本女子大学文学部教授)
歴史上、「宗教」を大義とする紛争・戦争は後を絶たない。近年はグローバル化・情報化の進展にともない、その範囲は広範に及び、行為主体も「国」だけではなくなりつつある。同時多発テロや、過激派組織「イスラム国」によるテロの頻発は端的な例だ。
提言 「宗教とどう向き合うか」
井上 「まずは宗教文化の基礎的素養を」
 宗教というのは多様で時とともに変わる。日本人は今まで宗教のことをあまり考えてこなかった。宗教の基礎的なことを踏まえて付き合うようにする。
臼杵 「イスラムは法である」
 イスラムということだけで過激だと考えがちだが、過激なのもイスラムであるし寛容なのもイスラムである。それはすべて「法」の解釈によっている。すべてイスラムの人は天国に行きたいという宗教的感情があるが、原則は法によって動いている。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150421_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150421_1
ゾロアスター教 ウィキペディアWikipedia)より
ゾロアスター教(英語: Zoroastrianism)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの徳(三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。この来世観は、のちの後期ユダヤ教キリスト教、さらにはイスラームへも引き継がれた。
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。

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イスラームを知ろう』 清水芳見/著 岩波ジュニア新書 2003年発行
天国へ行くための努力 (一部抜粋しています)
ムスリムにとって墓は一時的な死体置場にすぎない、といいましたが、これは彼らにとって死がすべての終わりではないということを意味しています。立派な墓をつくらないのもそのためです。ムスリムにとっては、生きているときよりも、死んだあとの生活のほうが大事だといっても過言ではないでしょう。すべてのムスリムはほぼ例外なく好ましいと考える死の例として殉教をあげましたが、その理由は殉教者になればかならず天国へ行けるということでした。
ムスリムのこうした死後の天国行に対する熱情は、ヨルダンのクフル・ユーバー村でもブルネイのパンカラン・パトゥ村でも、搬送儀礼の過程で強く感じられました。クルアーンのあちこちに登場する天国の生き生きとした描写は、ムスリムたちを魅了してやまないでしょう。死者を思いやるムスリムたちが、埋葬儀礼のさまざまな場面で死者のためにアッラーに祈るのもそのためです。天国がどのようなところか、たとえば、クルアーンの56章15節から23節にかけて、次のように書かれています。
 「金糸まばゆい臥牀(ねだい)の上に、向い合わせでゆったりと手足伸ばせば、永遠の若さを享けた(お小姓たち)がお酌に廻る。手に手に高杯、水差し、汲みたての盃ささげて。この(酒は)いくら飲んでも頭がいたんだり、酔って性根を失くしたりせぬ。そのうえ果物は好みにまかせ、鳥の肉など望み次第。目(まなこ)すずしい処女妻は、そっと隠れた真珠さながら」 (井筒俊彦訳。岩波文庫
アッラーに死者の罪を許し天国に行かせてくださいとお願いすることはたいへん重要なことです。しかし、その願いが聞き届けられるかどうかはアッラーの御心次第で、かならず聞き届けられるという保証は何もありません。つまり、これだけお願いすればかならずアッラーが願いを聞き届けてくれる、というような目安はないのです。
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これまで見てきたように、ヨルダン、モロッコ、エジプト、イランのような乾燥した中東に住むムスリムも、ブルネイ、マレーシア、インドネシアのような湿潤な東南アジアに住むムスリムも、生者が死者たちの善行を増やす努力をします。自分の死んだ家族が天国へ行くことができるようにするためです。自分の家族に対する愛情がこういうことを人びとにさせているのだと思われますが、彼らはみずからの善行を増やす努力も怠りません。
パンカラン・パトゥ村のある住民によると、善行を増やすまめにまず行なわなくてはならないのは、イスラームの5つの義務的行為(五行)を実践することだといいます。五行は個々のムスリムアッラーとの契約に基づいてアッラーに対する新興の証(あかし)として守るべきもっとも重要かつ基本的事項です。善行の記録を増やす近道は何よりもアッラーとの基本的な契約を遵守することである、という認識を一般のムスリムがもっていることを、この村人の発言は示しているといえるでしょう。

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どうでもいい、じじぃの日記。
2月1日、「イスラム国」の犯行グループがフリージャーナリスト後藤健二さん(47)を殺害したと発表した。
少し古い本だが、清水芳見著 『イスラームを知ろう』にこんなことが書かれていた。
ムスリムにとっては、生きているときよりも、死んだあとの生活のほうが大事だといっても過言ではないでしょう。すべてのムスリムはほぼ例外なく好ましいと考える死の例として殉教をあげましたが、その理由は殉教者になればかならず天国へ行けるということでした」
ムスリムとはイスラーム教徒のことだ。
彼らの考え方は、生きているときよりも、死んだあとの生活のほうが大事なのだそうだ。
そして、天国に行くためにはイスラームの5つの義務的行為(五行)を実践することなのだそうだ。
たぶん、「イスラム国」の連中も同じ考え方なのだろう。
日本には、「死んだらおしまいだ」というのがある。深く考えれば、いるいろあるのだろうが。
後藤健二さんのご冥福をお祈りします。