じじぃの「神話伝説_175_神は妄想である・無限の退行」

Amazing Proof That God Exists 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=qz77atYHTOA
宇宙の法則は創造されたものなのか 2014/12/25 Yahoo!知恵袋
回答
かの有名なホーキング博士の話を紹介します。
地球は「ハビタブルゾーン」と呼ばれる、太陽系でも特別な位置を公転しています。このゾーンというのは、太陽からの距離がちょうど良くて水が蒸発もせず凍りもしない範囲のことです。この範囲から外れている、例えば火星は、水が存在する岩石惑星で地球に近い構造なのに生命が居ない。
ID論者たちは、(IDとはインテリジェンス・デザイン、つまり知性ある存在が宇宙をデザインしたということ)「地球がこんな狭い範囲にあって、こんな生命存在に都合のいい環境なのは、誰かの意図があるからだ。偶然にしては出来過ぎてる」と言います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11139831156
『神は妄想である―宗教との決別』 リチャード・ドーキンス/著、垂水雄二/訳 早川書房 2007年発行
神の存在を支持する論証 (一部抜粋しています)
13世紀にトマス・アクィナスによってなされた5つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういうことにためらいを感じはするが――ことがたやすく暴露される。最初の3つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――1つの問いに対する答が、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづくというものだ。
1 不動の動者 どんなものも、それに先だって動かす者がいなければ動かない。これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものは神である。何かが最初の動きをつくらなければならず、その何か(第1動者)を私たちは神と呼ぶのである。
2 原因なき原因 どんなものも、それ自体によって引き起こされることはない。あらゆる作用は先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。これは最初の原因(第1原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶのである。
宇宙論的論証 いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずにちがいない。しかし、物理的な事物が現にいま存在するのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずにちがいなく、それを私たちは神と呼ぶのである。
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存在論論証に対してもっとも決定的な論駁をおこなったのはふつうデイビッド・ヒューム(1711-76)とイマヌエル・カント(1724-1804)の2人の哲学者だということになっている。カントは、「存在」は非存在よりも「完全」であるという狡猾な仮定こそ、アンセルムスが袖の下に隠しているインチキ・カードであることをつきとめた。アメリカの哲学者、ノーマン・マルコムはそのことを次のように表現した。「『存在するものこそ完全なものである』という教義は、驚くほどいかがわしいものである。私の将来の家が断熱設計であれば、そうでないものよりもいい家になるだろうと言うのは、理に適っているし、正しくもある。しかし、『もしその家が存在していれば、存在していないよりもいい家になるだろう』というのは、いったい何を意味しているのか?」。さらに、オーストラリア人の哲学者、ダグラス・ガスキングは、神が存在しないという皮肉な「証明」をもって、そのことを指摘した(アンセルムスの同時代人のガウニロがいくぶんこれに似た背理法を提唱していた)。
 世界の創造は想像できるなかでもっともみごとな達成である。
 1つの達成の真価は、(a)その固有の質と(b)その創造者の能力の産物である。
 創造者の無力さ(あるいは障害)が大きければ大きいほど、その達成はより感動を与える。
 創造者にとってもっとも並はずれた障害は存在しないことだろう。
 したがって、もし宇宙がこの世に存在する創造者の産物であると仮定すると、私たちはそれよりも偉大な存在を思い浮かべることができる――すなわち、存在しないのにすべての事物を創造した者である。
 したがって存在する神は、それより偉大な存在を思い受けべることができない偉大な存在ではない。なぜなら、それより並はずれて、信じられないような創造者は、存在しない神ということになだろう。ゆえに
 神は存在しない。
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主観的な判断に依存しない、もっとはるかに強力な論証が1つあるのだが、それはありえなさ(非蓋然性)による論証である。このやり方を採れば、私たちは五分五分の不可知論を離れ、大多数の神学者にとっては有神論の極みであり、しかし私にとっては無神論の極みである地点まで進むことができる。このことは、これまでもすでに何度かほのめかしてきた。この論証はせんじつめれば、「誰が神をつくったのか」というおなじみの、思索的な人間ならたいてい独力でたどり着く問いにほかならない。組織化された複雑さを説明するのに設計者(デザイナー)としての神は使えない。なぜなら、何かを設計できるいかなる神も、それ自体が同じ種類の説明を要求するほどに十分複雑でなければならないからである。神をもちだせば私たちは無限の退行にとらわれてしまい、そこから抜け出したとしても、神は何の助けにもなってくれない。