じじぃの「世界遺産・エルミタージュ・サンクトペテルブルグ!世界漂流」

五木寛之 エルミタージュ美術館(1988年) #1-6 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yJhQlU4l8KU&feature=related
五木寛之 エルミタージュ美術館(1988年) #2-6. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FDX7T-REAuA&feature=related
12.30.2010 サンクトペテルブルク 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=w956KN7PARs&feature=related
ピョートル大帝 画像
http://www.rus.jp/EV//media/img_20081121T115142546.jpg
サンクトペテルブルク Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF&oi=image_result_group&sa=X
ハイビジョンスペシャエルミタージュ幻想 RUSSIAN ARK 2002年放送 NHK
ロシア・サンクトペテルブルクエルミタージュ美術館を舞台に、3世紀に渡って栄華を誇ったロシア王朝のドラマを幻想的に描きます。監督はロシア映画界の巨匠ソクーロフ。第一級の美術品が飾られたままの状態で、90分を1カット撮影した映像作品史上初の試み。240年のロシア近代史をたどり、ロシア文化とは何かを問いかける壮大な歴史絵巻です。ロシア、ドイツ、日本の共同制作で、2002年度カンヌ映画祭正式出品作品。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010019697SA000/
世界遺産ライブラリー [サンクトペテルブルク] NHK世界遺産
ロシアで最も美しい都市と言われるサンクトペテルブルク。町を流れる運河沿いには、風格ある建物が数多く立ち並びます。しかし、その歴史は意外に新しいのです。18世紀初頭、ロマノフ王朝第五代皇帝、ピョートル大帝は、ヨーロッパに比べ遅れていたロシアの近代化を決意。何もない沼地だったこの地に、ヨーロッパに負けない壮麗な町を作り上げました。以来、サンクトペテルブルクは、ロシア革命翌年の1918年までのおよそ200年間、政治・経済・芸術の都として栄えました。革命後はレニングラードと改名されましたが、ソ連崩壊後に、旧名が復活しています。
「シリーズ世界遺産100」では、サンクトペテルブルク誕生の父、ピョートル大帝に焦点を当て、近代化にかける彼の思いが凝縮されたペテルゴフ宮殿を取り上げます。
ヨーロッパに追いつき、追い越すことを目標にしていたピョートルが、宮殿の建設にあたって最も意識したのは、ベルサイユ宮殿でした。
宮殿そのものの壮麗さはもちろんですが、出色なのは庭園を彩る150もの噴水です。それぞれの噴水には驚くべき工夫が凝らされています。噴き出す水のパワー。それを支える近代的な美術。さらには、人を感動させる文化としての価値。ピョートルは、これらの噴水によって、ロシアの近代化を内外に示そうとしたのかもしれません。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards316.html
『世界漂流』 五木寛之/著 集英社 1992年発行
エルミタージュ詣で (一部抜粋しています)
レニングラードは、信じられないほど夢幻的な美しさをもった街です。白夜の訪れる夏には、夜もなければ影もない。柔らかな陽光は豪華なネヴァ川の流れに降り注ぎ、冬宮は鮮やかな緑の中で生き物のように優しく息づいています。
対照的に、冬は零下45度に凍る街。晴れたと思ったら雪が降り、曇ったと思ったら瞬間青い空がぱっと見え、暖を求めて人々は外に出ます。石の街の室内は、外よりさらに厳しく冷え込むというのです。
めぐる季節の強烈なコントラストにも、苛酷な、しかし人の心を離さぬレニングラードの姿が象徴されています。
この街を最初に訪れたのは、1960年代の半ばでした。私が30歳を越えたか越えないかくらいの頃です。横浜からナホトカを経由し、シベリア鉄道を乗り継いでモスクワに向かいました。モスクワから「赤い矢」と呼ばれる寝台列車レニングラードへ向かうというのが、当時のルートでした。
初夏というのに、じりじりと焼けるような暑い日でした。ようやくたどりついたロシアの古都、厳しい顔で私を迎えました。照りつける太陽が石の建物に反射して、意外なほどに強烈な暑さに、私は流れる汗をぬぐいながら、ひたすらエルミタージュ美術館をめざしました。
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<ペテルブルク><ペトログラード><レニングラード>とネヴァ川がフィンランド湾にそそぐ河口の沼地であるこの街は、ロシアの歴史の変換と共に幾度も、その名前を変えています。ドイツ風の<ペテルブルク>が<ペトログラード>に変わったのは、1914年、ドイツがロシアに宣戦布告をしてからです。<レニングラード>と呼びならわされるようになったのはロシア革命後の1924年です。
ピョートル大帝――この不思議な情熱をもったロシアの専制君主なしには、ペテルブルクの建設も、ロシアの近代化も成就しなかったでしょう。
<ネヴァ>とはフィンランド語で泥を意味する言葉であるといわれます。ネヴァ川の水も、この沼と同じように、いつも泥で濁り、褐色をしています。軟弱な泥の湿地帯、人も住まない荒涼たる自然、都市を建設する基本的条件というべき地盤が決定的に悪い土地――こんな場所に価値を見出す者は、ピョートル以外誰もいませんでした。
ロシア正教の古い因襲がこびりつき、遅れた東洋のにおいがしみついたモスクワを忌み嫌っていたピョートルは、ロシアを西欧列強と並ぶ大帝国に発展させることを夢みていました。何よりもこの土地が西ヨーロッパを望むバルト海に面していることに彼は夢中になったのです。
ペテルブルクは、自然のエネルギーに逆らってつくられた人口の都市です。都市建設に狩り出され、苛酷な強制労働に従事されられた民衆たち。その犠牲者の数は10万人とも、20万人を上回るとも伝えられています。
しかし、人々は、レニングラードを沼地ですらなく、ほとんど空気の上に建設された土地であるかのように考えるのに慣れています。水上に杭と計算によって樹立された土地であるレニングラードが<北海のヴェネツィア>と呼ばれるのも、その成立条件と美しさにおいて、あながちはずれていないと思います。
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1988年、私は2度に分けて丹念にエルミタージュとレニングラードを見て回る機会をもちました。恐らく、私の生涯でこれほどたくさんの絵を見る機会は今後もないだろうと思うくらい、数々の絵の前に立つことができました。
エカテリーナが手に入れたといわれる、レンブラントの『放蕩息子』『聖家族』に始まるコレクション。女帝時代にすでに3000点にも及んだという名画も、当時はエカテリーナの専有物でした。現在では年間340万人が自由に眺めています。
雑誌や画集で見た絵が目の前にずらりと並んでいますと、やはりショックを受けます。近代絵画の部屋では、ピカソとか、ゴッホとか、ゴーギャンの絵を前に、なるほど、これが一点何億の作品か、という感じで、非常にあさましいエコノミック・アニマルぶりを発揮しながら眺めていたのですが、なかには、全く見たこともない絵もあって、セザンヌゴッホにもこんな絵があったのかといった予期せぬ驚きもありました。
名画巡礼の中でも、とりわけ印象的だったのが、ロシアの生んだ前衛画家、カンディンスキーの絵と出会うことができたことでした。カンディンスキーの絵は、十数点でしょうか、一番最後の階段の踊り場のようなところに雑然と並べられていたのです。そこには、雑巾とか電気掃除機なども立てかけられていて、物置きといった場所なのですが、カンディンスキーの絵がそこに置かれているというのが、いかにも象徴的な感じがしました。
2度目に行きましたときには、シャガールの特別展をやっていました。いくつもの部屋に相当豊富なシャガールがありまして、若人や画学生に大変な人気でした。
エルミタージュにも、徐々にではありますが、ロシアの近代絵画の絵を陳列され初めているのを見ていますと、ロシアが美術の世界においても現代の息吹を呼吸し始めているんだなということをうっすらと感じることができました。
それにしても、270万点以上の作品が所蔵されているというエルミタージュです。部屋から部屋へとめぐるうち、ヨーロッパ絵画独特のボリュームとエネルギーに満腹になってよろめきそうになりました。
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ヨーロッパから暗黒のロシア、野蛮なロシアと見られていたこの国を、ルネサンス以来の西欧文化の輝きを導入することで近代化しようとしたピョートル1世。
それに続くエカテリーナ2世も、西欧文明に非常に憧れて、フランスの啓蒙思想化たち、ヴォルテールディドロと深い親交を結んでいます。
つまり、ピョートル大帝エカテリーナ2世も、農奴制の上に成立している中性的な国家に西欧文化を導入することで、一条の近代化の光を射し込ませようとしたわけです。エルミタージュもその1つだったといえます。
ところが、芸術によってロシアに光をと考えた美の殿堂と、川1つ隔てたペトロパブロフスク要塞に収容されたインテリゲンチアや過激派の政治犯たちは、民衆の側から、暗黒のロシアに一条の光を導き入れようと考えた人たちでした。テロや革命という、自分たちの血と生命をかけた政治的手段で、西欧からの光をペテルブルクにと呻吟していたわけです。
エカテリーナはエルミタージュから対岸の要塞を眺めて何を思ったのか。あるいは監獄に小さな窓があったとすれば、そこから壮麗なエルミタージュを眺めながら囚人たちは何を考えていたのか。
エルミタージュ美術館とペトロパブロフスク要塞――ネヴァ川をはさんだこのドラマティックなたたずまいに、ロシアの文学、ロシアの美、ロシアの宗教を理解する鍵があるように思えてならないのです。

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どうでもいい、じじぃの日記。
五木寛之著 『世界漂流』という本を見ていたら、「エルミタージュ詣で」というのがあった。
バルト海に面するサンクトペテルブルグは「北のベニス」とも呼ばれる都である。
サンクトペテルブルグピョートル大帝フィンランドに備えて作ったペトロパブロフスク要塞が原型となった都市で、もとはペトログラード(ピョートルの町)と呼ばれた。
歴代ロシア皇帝の住まいであった宮殿は現在エルミタージュ美術館として一般公開され、世界3大美術館の1つといわれている。
「270万点以上の作品が所蔵されているというエルミタージュです。部屋から部屋へとめぐるうち、ヨーロッパ絵画独特のボリュームとエネルギーに満腹になってよろめきそうになりました」
すげぁなあ。270万点か。
カンディンスキーの絵は、十数点でしょうか、一番最後の階段の踊り場のようなところに雑然と並べられていたのです。そこには、雑巾とか電気掃除機なども立てかけられていて、物置きといった場所なのですが、カンディンスキーの絵がそこに置かれているというのが、いかにも象徴的な感じがしました」
カンディンスキーの絵が雑巾とか電気掃除機と一緒の場所に置かれてありました。か。
エルミタージュ美術館の前にはペトロパブロフスク要塞がある。
当時のロシアの人は、こんなエルミタージュ宮殿を見て、「絶対君主」を倒せ、となったのだろうか。
「現在では年間340万人が自由に眺めています」
皮肉なもんだな。
サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群の街全体が文化遺産として、1990年にユネスコ世界遺産に登録された。