じじぃの「人の死にざま_754_B・フィッシャー」

ボビー・フィッシャー - あのひと検索 SPYSEE
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ボビー・フィッシャー 2/2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TZVXaGARTXE
チェスの元世界王者、64歳フィッシャー氏死去 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=U2_YCk5lebI&feature=related
林先生の痛快!生きざま大辞典SP 「世界を驚かせた天才たち」 2014年12月10日 TBSテレビ
【MC】林修 【進行】吉田明世 【ゲスト】板野友美尾形貴弘、志田晶、住田裕子ふかわりょう藤本美貴ホラン千秋、レッド吉田、その他
今回の2時間スペシャルでは、二つの切り口で「超天才」の生きざまに迫る。超天才の生きざまを知ることで人間にとって頭の良さとはなにか? それが幸せにどう結びつくのかを林修先生が解説する。
まずは、世界を驚かせ超天才たちにスポットを当てる。世界一IQが高いとされるマリリン・ボス・サバント。世界を驚かせた日本人天才数学者、岡潔。世界一のハッカーを倒した天才ヒーロー、下村努。などを紹介する。
ボビー・フィッシャー
 伝説のチェスの天才。人類史上最強の頭脳ゲームプレーヤーである。母子家庭に育ったフィッシャーは6歳のとき、姉に1ドルのチェスセットを買ってもらう。超天才脳が開花、14歳でアメリカの頂点に立ち、やがて世界を巻き込む大事件を引き起こしてしまう。
http://www.tbs.co.jp/suitoku/suitoku20141210.html
ボビー・フィッシャー ウィキペディアWikipedia)より
ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer、1943年3月9日 - 2008年1月17日)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれのチェスプレーヤー。チェスの世界チャンピオン(1972年 - 1975年)。本名、ロバート・ジェームス・フィッシャー 。「米国の英雄」あるいは「幻の英雄」とも呼ばれる。チェス960も考案した。
あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年にわたり身を隠したりするなど、その謎めいた人生、数奇な人生という点でもよく知られている人物である。
2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。世界中で、フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したとニュースが駆け巡った。同年8月、かねてより親交のあった日本チェス協会事務局長の渡井美代子と結婚を宣言した(“2000年来 彼女の家で同居し「事実婚」だ”とされた。入籍はしなかった)。Timesの記者に対して、渡井は“ふたりは普通に生活している”と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、米国を憎むフィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、フィッシャーにどのような状況打開策が残されているのか、非常に不透明な状況になった。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えばボビーの父親の古郷でフィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、羽生善治民主党榛葉賀津也社民党福島瑞穂といった人々の運動が功を奏し、2004年12月、アイスランド政府がフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005年3月24日、日本政府はフィッシャーのアイスランドへの出国を認め釈放した。以後はアイスランドに滞在し、2008年1月17日に64歳で死去した。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
ボビー・フィッシャー 【執筆者】鈴木啓一 (一部抜粋しています)
アイスランドは、ワシントンからもモスクワからも等距離にある。
世界チャンピオンのボリス・スパスキーは、対極の始まる11日の前、1972年6月21日。ソ連からアイスランドにやってきた。世界中から322人の記者が集まった。しかし、挑戦者のボビー・フィッシャーが来ない。「私と、私の国家への侮辱だ」。スパスキーは報道陣に向かって怒った。
チェスは、ソ連のものだった。37年以来、世界チャンピオンは全員ソ連人、48年以降、ソ連人以外は世界選手権んの挑戦者にすらなれなかった。ソ連は国家ぐるみで英才選抜し、環境を整え、教育した。
米国のフィッシャーは突然変異だった。まったくの独学で、あっという間に挑戦者に駆け上がった。
第1局の前日になっても、フィッシャーはまだ米国にいた。賞金、ルール、整備……。すべてに文句をつけ、いっこうに腰を上げない。
アイスランド・チェス協会のグズムンドル・ソラリンソン会長にスパスキーから電話があった。
「2人だけで秘密に会いたい」
滞在先のホテルでスパスキーは「ハイレベルで解決してほしい」と言った。「わかった」と、会長は答えた。ここで誤解が生まれた。
米国政府を通じた解決を要請されたと思った会長は、すぐさま米大使を通じてホワイトハウスに連絡した。キッシンジャー・国家安全保障担当大統領補佐官がフィッシャーに電話をかけることになった。同席したフィッシャーの弁護士によると、キッシンジャー補佐官は「君がソ連の代表と戦うことを米国民は期待している」と口説いた。
賞金も2倍に増額された。スパスキーに遅れること13日。フィッシャーがアイスランドにやってきた。
今度はスパスキーがごねる番だった。彼が頼みたかったのは、米国政府を通じた説得などではなく、ソ連政府へのとりなしだったのだ。クレムリンは、自国のチャンピオンが10日以上も待たされたことに、国家の威信を傷つけられたと憤慨し、スパスキーに帰国命令を出していた。しかし、本人は帰りたくなかった。世界一の座も賞金もほしかった。
スパスキーには、3人のコーチとボディーガード、コックが同行していた。彼らは監視役でもあった。監視の目を盗んで会長と会ったのに、ソ連政府の姿勢は変わらない。「あなたは何もしてくれない」。スパスキーは会長をなじった。
あわてた会長は、ソ連大使を通じてクレムリンにわびを入れた。ようやく第1局が始まることになった。
9日遅れで始まった第1局。フィッシャーは定刻に現れなかった。7分遅れた。その後も、対局のたびに遅れてきた。「宮本武蔵」的な作戦ではない。パーティーでも何でも、どんな約束にも遅れたからだ。
対局用のイスは、両者から攻撃された。「イスの革に毒が塗り込められている」。スパスキーはこう主張した。フィッシャーは「むこうは内蔵マイクを通じて、コーチからアドバイスを受けている」と言った。
イスはレントゲンで撮られた後、水洗いされた。
フィッシャーは常々、ソ連側が観客席に催眠術師を潜ませていると主張していた。このときもスパイがいると怒った。キャンデーの包み紙を開ける音がうるさいと言って、子どもの入場に反対した。
宿泊先のホテルで、フィッシャーは「私はチェスの王様だ。サケは魚の王様だ」と言って、サケ料理ばかり食べた。午前2時に「泳ぎたい」と言い出し、地下の室内プールを開けさせた。コック長のヒルマン・ヨンソンさんは「5歳の子どものようだった」と、振り返る。
ボディガードとして雇われたサイムンヅル・パウルソンさんの仕事は、食事の毒味だった。ソ連側が薬物を盛ることをフィッシャーは警戒していた。
53日間、21局に及んだ戦いは、フィッシャーの7勝3敗11分けで終り、チャンピオンの座はソ連から米国に移った。主側メディアは「代理戦争の勝利」と大々的に報じ、米国のデパートからチェスセットが売り切れた。
しかし、フィッシャー本人は世間の騒ぎにも、世界を2つに割った冷戦体制にも関心がなかったようだ。
3年後、アナトリー・カルポフとの初防衛戦で、フィッシャーは対局数をめぐるルール上の問題で国際チェス連盟と衝突した。戦いさえすれば、負けても6億円を手にすることが決まっていたが、防衛線を拒否し、タイトルを剥奪だれた。
そして、チェス界から消えた。

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