じじぃの「人の死にざま_261_M・プランク」

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Max Karl Ernest Ludwig Planck 動画 YouTube
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Study in Germany - マックス・プランク協会
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マックス・プランク フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(1858年4月23日-1947年10月4日)はドイツの物理学者で量子論創始者の一人である。量子論の父」とも呼ばれている。科学の方法論に関して、エルンスト・マッハらの実証主義に対して、実在論的立場から、激しい論争を繰り広げたことでも知られている。1918年にノーベル物理学賞を受賞。
【生涯】
黒体から放射されるエネルギー(黒体放射)に関して、熱力学の理論シュテファン=ボルツマンの法則(または、ヴィーンの変位則)から導かれる予測と実験的に求められた結果(レイリー・ジーンズの法則)との間に矛盾があることが知られていた。プランクは光のエネルギーが、ある最小単位の整数倍の値しか取ることが出来ないと仮定するとこの矛盾が解消されることを発見し、放射に関するプランクの法則(1900年)を導出した。またこの過程で得られた光の最小単位に関する定数(1899年)はプランク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなった。
ナチス政権下に於いても亡命はせず、ヴェルナー・ハイゼンベルクらと共にドイツに留まる道を選んだ。第二次世界大戦中のプランクは不遇であった。1943年にはベルリン空襲によって家を失い、妻と共にエルベ河畔のローゲッツに疎開した。また、1944年のヒトラー暗殺計画に加担した次男のエルヴィンが処刑され、自身も「国賊の父」とされた。
第二次世界大戦後、彼を記念してカイザー・ヴィルヘルム研究所は「マックス・プランク研究所」と改名された。マックス・プランク研究所は21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。

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『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
気の進まない革命家 マックス・プランク (一部抜粋しています)
黒体放射
熱心でない革命家としてマックス・プランクの物語が膜を開けたのは、1895年ごろのベルリンで理論物理学者として認められ、物理学の用語で「黒体」と呼ばれる特別な高温の炉から放射される光や熱の理論に関心を持ったときだった。黒体とは、形式的に言うと、加熱されると放射を発するが、外からの放射は反射しない物体のことだ。この単純化した特徴を実現するには、炉を分厚い壁で完全に覆い、放射が出てくる小さな穴を開ければいい。
黒体(あるいはそれ以外)の炉が発する放射の色は、炉がどれほど高温であるかによって決まり、その関係はよく知られていた。摂氏550度では暗赤色、750度ではオレンジ色、1000度では黄色、1200度以上では白に見える。あらゆる放射に共通した驚きべき特徴として、壁が内部の放射と平衡状態にあるような黒体では、色のスペクトルは炉の温度のみによって決まる。炉の中身が何であれ、温度が一定ならまったき同じ一様な色を発することになる。この基本的な観察事実を部分的に説明する理論が、1859年にキルヒホッフによって導かれていた。
プランクはそこに、「絶対的なもの」、熱力学の研究で探し求めていた崇高な存在の紛れもない証拠を見て取った。黒体炉は、放射と物質との相互作用を、理想化されてはいるが実験的に調べられる実例だった。このころまでに、黒体のスペクトル−−放射される色の虹−−を分析する実験的方法が急速に進歩したことで、黒体の理論研究も著しく発展していた。そしてその理論によって、黒体炉の壁が持つ熱エネルギーと炉の内部に閉じ込められた放射エネルギーとの間で、エネルギー変換の釣り合いが取れていることが明らかになった。プランクが研究を始めるまでに、黒体放射の問題は理論的な樹木へと成長し、いくつか熟した果実を実らせていたのだった。
プランクはまず、正確な実験データを手にした理論家なら必ずやることとして、データと一致する経験式を導いた。その道しるべとしては、黒体放射場のエントロピーとエネルギーとの熱力学的関係を使った。そして、エネルギーとエントロピーの関係として2つの極端な状態を定義し、一般的な状態はこれら2つの極限状態の線形的組み合わせになっているのではないかと推測した。この驚くほど単純な方法によってプランクは、どんな場合にも当てはまる放射の公式へたどり着いた。
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プランクは90歳近くまで生きた。2度の世界大戦、2つの帝国、そしてワイマール共和国をその目で見た。自らも構築に手を貸したドイツの偉大な科学体系が、ナチスによる反ユダヤ人政策などの蛮行により破壊されるのも目にした。ナチスのあらゆる行いを嘆いたが、ドイツに留まり、すべてが終わった後に破片を拾い上げる手助けができればと考えていた。爆撃で危うく難を逃れ、ベルリン郊外のグリュンヴァルトにある自宅は被害を受けた。そんな中でもプランクは、未来への希望を捨てなかった。だがやがて、もっとも悪いことが起こる。
1944年2月、激しい爆撃でグリュンヴァルトが壊滅した。プランクの家も、書物、手紙、日記とともに破壊される。さらにおよそ1年後、最初の妻との子どもとして唯一生き延びていたエルヴィンが、ヒトラーの暗殺を共謀したとして処刑された。プランクは甥や姪に次のような手紙を書いている。「エルヴィンは私にとってかけがえのない存在だった。私の喜び、誇り、希望だった。失ったものは言葉では表せない」
のちにプランクは、次のように書いている。「我々が絶対の確信を持って求められるであろう唯一のもの、世界中のどんな権力でも奪い取れない最高の美徳、何にも増して永遠の喜びを与えてくれるもの、それは魂の高潔さだ。そして、精密科学の体系の構築へ参加が許されるという幸運をつかんだ者は、探究できるものを探求し、探究できないものには静かに敬意を払った偉大なゲーテとともに、満足と内なる喜びを知るだろう」この中のフレーズ、「探究できるものを探求し、探究できないものには静かに敬意を払った」という言葉が、マックス・プランクの墓碑銘だったと言えよう。

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