じじぃの「人の死にざま_174_マルクス」

あの人に会いたい カール・マルクス SPYSEE
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karl marx 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2jDzEaED9To
共産主義 ウィキペディアWikipedia)より
共産主義は、資本家的私的所有の廃絶を目指す思想および運動である。共産主義思想のもっとも有力な潮流であるマルクス主義では、生産手段(会社など)を私的所有から社会的所有に変え、人間による人間の搾取を廃止することによって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会が可能になるとしている。(『共産党宣言』)
また、この思想に基づく体制も共産主義と呼ばれる。共産主義社会主義の一つの潮流であるが、マルクス主義においては共産主義の低い段階を指す語としても社会主義が使われる。
マルクスエンゲルス共産主義論】
1848年に共産主義者同盟の綱領的文書として発表された『共産党宣言共産主義者宣言)』において、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスは、資本主義社会をブルジョアジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)の階級対立によって特徴づけ、ブルジョア的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の目的とした。この革命によって階級対立の解消、国家権力の止揚へと向かい、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会を形成することが共産主義の目標であるとした。またこの中で、共産主義者はこれまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ自己の目的が達成される、と宣言した。ただし、1872年の時点でマルクスは「労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。」と述べている。
ソ連社会主義の崩壊と各国の動向】
ソ連や東欧の共産党政権は、1989年以降に次々と崩壊し、ソ連も1991年に解体した。理由には経済の停滞と、衛星放送の普及などで国民が西側の豊かな生活を知ってしまった事がある。経済停滞の原因には、一党独裁・中央集権による官僚主義や非効率、西側の封じ込め政策である禁輸や軍拡競争などがある。
中華人民共和国中国共産党は、毛沢東が主導した大躍進政策文化大革命によって、人的、物的に多大な損失を経験した後、1970年代後半から訒小平の指導で改革開放を進め、社会主義市場経済を標榜した。これは、一言で言えば資本主義と社会主義の混合経済であり、ソ連のネップやアジアNIES諸国のやり方を参考にしている。「発達した資本主義経済が社会主義経済へ移行する」というマルクス主義の経済発展段階の学説に基づき、市場原理の導入によって経済を発展させ、それを基に社会主義社会を通して共産主義社会を目指すとしており、現在は資本主義社会から社会主義社会への過渡期であると主張している。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
ドイツ学派
ヘーゲルの哲学は、もっとも難解なものの1つである。ヘーゲルは"絶対的観念論"として知られる哲学を展開した。この観念に立つと、物事は単なる現象、あるいは、幻影にしかすぎず、唯一の現実は"絶対精神"であり、絶対精神は闘争や矛盾の歴史的な過程のなかでその本質を現わすということである。この過程のなかから、絶対精神の真の表れ、すなわち、すべての矛盾が高い段階の弁証法的な総合によって解決された、完全な社会が生まれるとされる。
ある命題を反対の命題を立てて破っていくというこのヘーゲルの考え方、すなわち弁証法は、カール・マルクスによって受け継がれた。しかし、マルクスヘーゲルの考え方を逆にし、絶対精神の代わりに物事を思想体系の基本に置いた。マルクスの哲学体系では、一連の階級闘争から永久の弁証法的総合である共産主義が生まれるとしている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
マルクス (1818-1883) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
晩年カール・マルクスも夫人イエニーも、長年の苦労がいっせいにふき出したかのように病みがちになった。
1881年秋、ロンドンの自宅で肋膜炎がやや快方に向かったマルクスが、病床の妻の部屋にいったときの光景を、娘のエレノアールは書いている。
「彼がお母さんの部屋にゆけるほど元気になった朝のことを、私は決して忘れないでしょう。2人はまだ若い時のようにいっしょにいました。彼女は愛する女、彼は愛する若者で、いまいっしょに暮らしはじめたように見え、お互いに、人生に別れを告げようとしている病気に老いた老いた夫と、死に瀕している老いた妻とは見えなかったのです」
その年の12月2日、イエニーは永遠の眠りについた。肝臓ガンであった。彼女は、夫がドイツから追われてロンドンに亡命中、怖ろしい窮乏の中に、幼い子供3人を失い
ながら、ひとことも夫に不平をのべることなく、夫の著作と革命運動に協力しつづけて来た妻であった。
イエニーが死んだ日、マルクスはその葬式にも出られない状態にあったが、親友のフリードリヒ・エンゲルスマルクスの悲嘆ぶりを見て、「これでモールも死んだ」と、つぶやいた。モール(黒人)とは、壮年のころから顔も髪も黒く頑丈な身体の持主であったマルクスにつけられたあだ名である。しかし、いまはその髪も真っ白に変わっていた。
しかしマルクスは病床から立ち直り、『資本論』第2巻の著述に最後の力をふりしぼった。
1882年10月、彼は医者のすすめでイギリス海峡にあるワイト島に療養にいったが、冬のワイト島は雨と霧の日が多く、彼はかえって
風邪をひいた。そこへ、1883年1月11日、彼の長女ですでに結婚している、母と同名のイエニーが39歳で肺結核のためパリ近郊のアルジャントゥイユで死んだという知らせが来た。これは彼にとって最後の打撃であった。
彼はすぐロンドンの自宅に帰ったが、やがて喉頭炎を併発して食物ものどを通らなくなり、2月にはいると腸に潰瘍が出来、薬もまったく効かなくなった。根源の病巣は重い肺結核にあった。
友人のエンゲルスは毎日見舞いに来たが、3月14日午後2時半に訪ねて見ると、忠実な老家政婦レンヒュンがマルクスが喀血し気を失った、最後のときが近づいているようだから早く見てくれ、といった。エンゲルスは2階に駆け上がった。
「彼は眠っていたが、もう眼をさまさなかった。脈搏と呼吸はつづいていた。2分後に彼は安らかに苦しむおとなく永遠の眠りについた」
と、エンゲルスは書き、友人の手紙に、
「人類は頭1つだけ低くなったのだ。しかも人類が現在持っている最も大切な頭1つ分」
と、書いた。
資本論』第2巻は未完のまま終わった。しかしエンゲルスはまたいう。
「彼の名は幾世紀にもわたって生きつづけるだろう。そして彼の仕事もまた然り。・・・・」
マルクスの死は、しかし後年から見るとふしぎなほど世間には知られなかった。3月17日の葬式には、わずか20人の人々が連なっただけだった。
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同じ年に20世紀の代表的経済学者ケインズシュンペーターが誕生した。

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