じじぃの「人の死にざま_90_湯川・秀樹」

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
湯川秀樹 (1907-1981) 74歳で死亡 【執筆者】林梓生 (一部抜粋しています)
深夜、兵庫県西宮市の六甲山麓にある二階屋にパッと電燈がついた。大阪大学講師、湯川秀樹の家。1934年10月初めのことだ。1階8畳の部屋で、湯川は起き出すと、寝間着のまま、まくらもとの机でノートにメモをつけはじめた。
妻のスミさんは、1歳の長男と生まれたばかりの次男を抱いて廊下に出た。泣き出すと夫の邪魔になるからだ。秋とはいえ、板張りの廊下は寒い。子どもたちがむずかる。スミさんは2人をあやしながら、寝室の灯りが消えるのを待った。
翌日夕方、大学から帰った湯川はスミさんに大きな声をかけた。
「今度はよさそうや!」
中間子理論の誕生を伝える声を聞いた最初の人間は、スミさんだった。
湯川の深夜の思考は、その半年前から続いていた。
彼が考えていたのは「核力」だった。原子の中心、原子核の周辺10兆分の2センチの範囲に働く力のことだ。深夜、ふとんの中で考えていると、いろいろなひらめきが生まれる。忘れていけないので、すぐメモをつける。まくらもとの机上には、いつもノートと鉛筆が置かれていた。
朝になると湯川は大学に行き、メモを見ながら計算をやり直す。しょんぼりと帰宅して、スミさんに報告する。
「ダメだった・・・・・・」
このころのことを、湯川は自伝に書いている。
「あくる朝になって、昨夜考えたことを思い返して見ると、実につまらないことである。私の期待は悪魔のように、朝の光とともに消え去ってゆく」
世界中の物理学者と競い合っている湯川には、多少の寝不足は気にならなかった。
だが、幼い子ども2人を抱えたスミさんは大変だった。母乳を与えて体力が消耗しているのに、毎晩のように電灯がついて起こされる。昼寝したいと思っても、実家の家からは「女は昼寝なんてもってのほか」といわれる。
きちょうめんで神経質だった湯川は、新婚当初済んだ大阪の家で不眠症に悩まされた。夜、猫がひさしの上を歩く音を、泥棒だというほどだった。寝床の中で思索する湯川の木が散らないように、一家は「川の字」ではなく、湯川の足もとにスミさんと子ども2人が寝ていた。
疲れて、スミさんは食が細ってきた。医者をしている父親から「顔色が悪いぞ」と注意された。わけを話し、父の指示で1日2合の牛乳を飲んだ。それでかろうじて体力を保っていた。あとで、肺湿潤になっていることが分かった。
戦争が終わり、日本は敗戦国となった。しかし米国は湯川に注目していた。京都大学教授になっていた湯川を48年、プリンストン高等研究所に招く。翌49年にはコロンビア大学教授になった。
その年の秋、ノーベル賞受賞の知らせが飛び込んだ。日本人初。米国のアパートに新聞記者が詰めかけた。2人の息子の学校まで駈けつける者までいた。
彼は記者の質問に「驚いています」と語った。しかし、自分の業績には十分な自信を持っていたようだ。あとでスミさんに「遅かったね」ともらしたという。
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中間子論は、それまで陽子と中性子、電子の3つからできているとされていた原子の中に、新しい粒子の存在を予言した。戦後、英国の物理学者の観測で存在が確かめられ、物理学界の物質観が一変する。
その後、同じような粒子が次々に発見された。これら素粒子は、さらに小さい基本粒子から成り立っていることも解明された。
日本人が仮説を立て、欧米の学者がそれを実証する−−。物理学の国際舞台で、日本人の独創性が始めて脚光を浴びた。
湯川は53年、米国から帰り、京大に新設された基礎物理学研究所長に就任。同時に、平和運動にも力を入れる。
渡米中、プリンストン高等研究所で、相対性理論アインシュタインに招かれたことがあった。ナチスから逃れ米国に亡命したアインシュタインは、人に頼まれ、原爆製造の必要性を米大統領にお揉める勧告書にサインしていた。
「その原爆が広島、長崎に投下されてしまった。申し訳ない」
アインシュタインはそういって夫妻の手を握り、涙を流したという。両博士は「原爆による人類の滅亡を防ごう」と、世界連邦設立に向かて強力しあうことになる。
55年、アインシュタインと英国の哲学者、バートランド・ラッセルが「核兵器が人類の存続に対する脅威となっている」と宣言をだした。湯川はその共同署名者に名を連ねた。57年には、科学者22人が核廃絶を訴えたパグウォッシュ会議に参加した。
晩年は車いす平和運動に取り組んだが、81年、がんのため亡くなった。74歳だった。

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【次代への名言】9月8日・湯川秀樹 2009.9.8 MSN産経ニュース
「今日の真理が、明日否定されるかも知れない。それだからこそ、私どもは、明日進むべき道をさがしだす」湯川秀樹 『旅人』から)
 きょうが命日の湯川秀樹はご存じの通り、1949(昭和24)年、日本人で最初にノーベル賞を授与された理論物理学者。対象となった中間子論の最初の発表は昭和10年だから、日本の科学技術のレベルが戦前からすでに世界のトップにあったことを証明した人でもある。
 学者一家の出身。幼年時代に祖父から漢籍素読を習い、「学校の席次のための勉強などは、最も愚劣なこと」とする環境で育った。ただ、「『ものが言い出せない』という障害を克服するのに、私は長い年月を要した」。ために父の地質学者、小川琢治は一時、三高(のちの京大)ではなく、専門学校へ進学させることを考えていた、という。
 湯川は、創造とは長い準備期間が必要な「自分自身とのたたかい」としたが、いくつもの著作で「創造性には自己抑制がともなわねばならない」とも説いた。「進歩の極みに立ちいたった物理学は、(原爆という)一番残酷なものを、そこから生み出すもと」だったからだ。
 科学と人間、そして日本人を深く愛した人だった。《忘れめや海の彼方の同胞(はらから)はあすのたつき(生計)に今日もわづらふ》。ノーベル賞授賞式のさい、スウェーデンで詠んだ一首である。
http://sankei.jp.msn.com/science/science/090908/scn0909080255001-n1.htm