じじぃの「人の死にざま_55_パウロ2世」

ヨハネ・パウロ2世 - あのひと検索 SPYSEE
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My tribute to John Paul II, Karol Wojtyia 1920-2005 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AxvKK735gFY
ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヨハネ・パウロ2世(John Paul II (the Second)、1920年5月18日-2005年4月2日)はポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位 : 1978年10月16日 - 2005年4月2日)。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ。
ハドリアヌス6世(オランダ出身)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神秘神学と哲学の二つの博士号をもっていた。
世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動の実践、反共産主義と東欧の民主化運動への精神的支援、諸宗教や文化間の対話の呼びかけとその実行、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示など、宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与えた。特に宗教間の問題に温和な態度で臨み、多くの信者、宗教関係者から尊敬されている。
84歳で死亡。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
ローマ法王ヨハネ・パウロ 【執筆者】ウィリアム・F・バックリー (一部抜粋しています)
1989年11月、ソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフジョージ・ブッシュ米大統領との首脳会談に向かう途中でローマに立ち寄る予定、との発表がなされた。ゴルバチョフはローマで、ヨハネ・パウロ2世と並んで、人々の前に立つことになる。
これこそ正真正銘のグラスノスチだった。この共産主義者世界の指導者は、ローマ法王は何個師団持っているのか、というスターリンの疑問に対する答えを図らずも見つけることになった。(師団の力ではなく)世界の首脳と会って精神世界の領域について影響力を行使することに熱心なローマ法王は、ソ連国内の敬虔な信者たちの人権擁護を求めていた。彼、カロル・ボイチワの修業は長きにわたり、古くはナチス支配下ポーランドで、聖職者になるための学問にいそしんだ時代にまでさかのほる。その後、共産主義政権下における協会区での勤め、学理研究、さらには1963年のクラクフ大司教昇格へと続く。気の毒なのはゴルバチョフだ。72年間、強制収容所までつくって、国家として正式に神の存在を否定してきたのに、時代が1989年になっても、世論調査ではソ連市民の4割が神を信じていた。
ベルリンの壁が崩れたのはこの訪問の数週間前のことだ。
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この5ヵ月後、ローマ法王は革命家パンチョ・ビラの国メキシコで、演説し、パンチョ・ビラ顔負けの強い印象を与えた。共産主義の崩壊を祝福するといっても、それは資本主義が勝ったという意味ではない、ということを法王ははっきりさせたかったのだ。自分が共産主義を批判してきたのは、経済的な欠点についてではなく、彼らが「人間の尊厳を踏みにじり、危険にさらした」からだ、と法王は大勢の聴衆を前に語った。この言葉は、1984にカナダで語ったものと同じだった。そしてこれと同じ考え方は現在でも耳にすることができる。一番最近の例としては、法王がフィデル・カストロと会見したハバナ訪問の際、披歴された。
1991年には、リベラリズム唯物論を厳しく非難した法王レオ13世の回勅100周年を記念する2500語からなる回勅が発っせられた。当時の唯物論は現在のそれと何ら変わらないが、リベラリズムと言う時、レオ13世は、「近代主義」の名の下に、教会や家族に対する因襲的な帰属から人間を解放することを求めていた当時の運動を念頭に置いていた。100周年を記念する回勅で、ローマ法王ヨハネ・パウロは、かれがしばしば口にする訓戒を繰り返した。労働者や経営者が、もっとよい製品を作りたいとか、もっと商品を売りたいとかいった思いに駆られて毎朝出勤するのは結構なことだ。しかし、もし彼らが年長者への尊敬や家族への愛、キリスト教的な物の見方から喜びを見いだす能力といった人間的な生活、人間的な帰属を面倒くさがって無関心のまま家路につくなら、これはまったく別問題だ、と。法王の言葉はいつも重々しいが、ここでは、社会主義が歴史上の途方もない失敗だったというのと同じくらい簡潔に、資本主義批判を言葉にしたのだった。
もし資本主義への批判が、強欲で腐敗した政治や経済の在り方に警告を発するだけだとするなら、悪魔ばらいはすぐ終わる。そして核使用の決定権を失った途端に語る言葉を失ったゴルバチョフのごとくゲラシモフも言葉を失う。
ヨハネ・パウロ2世が、だれにも引けを取らないほど博学で、その経験も世界にまたがるというのは、疑う余地のないところだ。彼は8ヵ国語に堪能で、学術書や論文も著しており、世界のほとんどすべての国々を訪問している。それでも、プライベートな面でいえば、法王は都会の新聞スタンドで手に入るような読み物やテレビの深夜番組のことはあまり知らないのではないかと人々は考える。だがそれでもなお、法王は何を読んでも何を見ても驚かないだろうということも察しがつく。というのも神の創造物は、善良さと同じくらい堕落の面でも創造的っであり、法王はそんな神の創造物の間近でずっと生きてきたからである。
何よりも驚かされるのは「常に神がご覧になっている」という、この見識あるポーランド人が抱いている、ほとんどの処女のような信念である。1981年に暗殺者の銃撃を受けたにもかかわらず回復したことについても、自分が命拾いしたのは主の手助けがあったおかげだ、法王が信じていることはよく知られている。(法王はこれを「奇跡的」とは言わない。カトリックのやかましい教義に従うと、「奇跡」という言葉はそんなに安易に使うべきではないからだ。ただし、神学に基づいて物事の基準を判断する、しかるべき委員会が、お得意の懐疑主義をあれこれこね回して検討を加えた結果、この言葉の使用に許可を出したのなら話は別だ)。また自分が2000年の1月1日まで法王の地位にとどまって、教会を新たな千年期に正式に導く運命にあるとも言われている。もし、これが現実になるなら、医学的な見地からこれを奇跡と呼んでも構わないと言う人も出てくるだろう。
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たとえ女性が祭壇に立つ権利や聖職位制度における権力の分配、法王の訓示の意味合いについて論争するような千年期の到来が予想できたとしても、法王が少なくても歴史的に重要な人物という評価に値するというのは間違いないところだ。次の世紀も、ヨハネ・パウロ2世の姿をしっかりと心に刻んで生活を送る人々は数多くいる。1993年のデンバーで、法王をひと目見ようと大勢集まったティーンエージャーたちの多くは、法王が50年以内に死んでしまっていても生きている。そして彼らは生身の人間として法王を思い出すだろう。わたしは1月に、いつもどおり100万人の人々とともに法王にお目にかかった。その中にはフィデル・カストロもいた。日曜日のミサでは、法王の健康について危惧する声も聞かれた。ハバナのハイメ・オルデガ枢機卿は慎重に言葉を選んで法王を紹介した。われわれはそこで法王の声を耳にした。わりと淡々とした口調であったが、彼のスペイン語は達者で、口調もはっきりしていた。数秒あとには、法王らしいしみわたりような人並み外れた温かさが伝わってきた。近くからは、病の徴候(パーキンソン病)、77歳という高齢、1981年に受けた銃撃の後遺症が見て取れた。こうしたことがすべて積み重なって、姿勢は前かがみになり、表情も物憂げで、おどおどしているようだった。しかしその後には、時折つかの間の素晴らしい光を放ちながら、公の場で見せるあのにこやかな表情に戻った。法王と同時代の人々のひと世代の心をとらえたほど、その存在は堂々としており、神の僕(しもべ)の中の僕であるこの特別なカリスマ的人物を、主ご自身がおつくりになったのではないか、とだれもが真剣に考えたほどだ。

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教皇ヨハネ・パウロ2世 インデックス
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/john_paul_ii/index.htm
ヨハネ・パウロ2世の言葉
「私のために祈ってください」
「私があなたがたに奉仕できるよう、助けてください」