じじぃの「人の死にざま_51_八田・與一」

八田與一 - あのひと検索 SPYSEE
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《KANO》六分鐘故事預告 動画 YouTube
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【台灣百年人物誌】八田與一 動画 YouTube
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八田與一銅像と墓

八田與一 ウィキペディアWikipedia) より
八田與一(はったよいち、1886年2月21日-1942年5月8日)は、大正期から昭和初期にかけて活躍した水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。
【評価】
日本よりも、彼が実際に業績を挙げた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に與一の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは與一の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。また、現在烏山頭ダムにある與一の銅像はダムの完成後の昭和6年(1931年)に作られたものであるが、中華民国蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際には、地元の有志によって隠され、昭和56年(1981年)になって再びダムに設置されるようになった。このように與一が顕彰される背景には、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、彼の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。
現在でも中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田與一の業績は詳しく紹介されている。平成16年(2004年)末に訪日した李登輝台湾総統(農業経済学者でもある)は、與一の故郷金沢へ訪問した。
2007年5月21日に陳水扁総統は八田與一に対して褒章令を出した。
また馬英九次期総統(当時)も、2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田與一氏の慰霊祭に参加した。
馬英九総統は2009年5月8日の慰霊祭に参加し、八田與一をたたえる記念公園を建設すると語った。(それを伝える産経新聞の記事)
日本においては、土木・水利研究者を除いてあまり知られていないが、司馬遼太郎の『街道をゆく』や小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』などで取り上げられている。
また、2008年には、與一を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」が制作され、同年10月以降、與一の故郷である金沢市をはじめ、各地で上映が行われている。

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Newsweek』日本版 2009年7月8日号 「世界が尊敬する日本人100人」 (一部抜粋しています)
八田與一
土木技師。1930年、日本統治下の台湾で当時アジア1と言われた烏山頭ダムと1万6000キロに及ぶかんがい用水路を10年かけて完成させ、不毛の台南州嘉南平野を豊かな穀倉地帯に変貌させた。
台湾の李登輝元総統が台湾の「恩人」と呼んだ。
42年、56歳で死亡。

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未来世紀ジパング 〜沸騰現場の経済学〜 2016年1月11日 テレビ東京
【MC】秋元玲奈大浜平太郎 【沸騰ナビゲーター】池上彰(ジャーナリスト) 【ゲスト】高橋英樹宮崎美子、パックン、ユージ パトリック・ハーラン

この年末年始、海外の旅行先で一番人気だったのが、台湾。
日本人にとって、それだけ身近な台湾だが、知っているようで知らないことにあふれている。
台湾一の名門高校、建国高級中学。このラグビー部には知られざる伝説がある。昭和16年、全国高校ラグビー選手権(今の花園大会)で優勝を遂げたのだ。それは、日本の植民地だった台湾にとって、大ニュースだった。当時、建国高校には日本人と台湾人が共学で学んでおり、同じラグビー部で共に汗を流していた。92歳の証言者が語る、日本人と台湾人の友情秘話とは…?
一方、統治時代を語る上で欠かせない人がもう一人いる。彼の名は八田與一。台湾に、当時世界最大となるダムを造り、荒地を一大穀倉地帯に変えた人物だ。台湾でかつては伏せられてきた八田與一の業績について近年、再評価が始まり、学校の教科書に八田の功績が描かれるようになった。
http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/backnumber/20160111/
『世界を変える100人の日本人!』八田與一(はったよいち) 台湾の農民を救った男 2008年12月12日 テレビ東京
日本の植民地だった台湾で不毛の大地と言われていた嘉南平野に当時、東洋一のダム、鳥山頭ダムと地球を半周する距離の灌漑施設を作り上げた男それが八田與一
1886年に金沢に生まれ、東京帝国大に進学後、台湾総督府内務局土木科の技師として就職し、台湾の上下水道施設などの建設に腕を振るった。それが認められ1920年着工した台南の嘉南平原のダム、及び灌漑施設の建設プロジェクトをまかされる事となった。当時の嘉南平野は雨期と乾季の差が激しく干ばつと洪水に悩まされる土地だった。
その土地を10年の月日で農業が出来る地に変えたのた。現在、台湾の高校の歴史教科書にも八田の功績は掲載され、八田の慰霊祭には今も多くの台湾人が足を運ぶという。
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/0812.html
李登輝氏の慶応大学講演草稿】 2003年
「日本人の精神」 (一部抜粋しています)
台湾の水利事業に尽くした故八田與一
台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一について説明しましょう。
八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(1町歩はおよそ1ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称(たた)えられるでしょう。
八田與一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。
1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代3代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第4代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。
八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。
台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大しゅうの調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5000町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。
この工事の途中から旧台南州嘉南大しゅう水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野15万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の2大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(しゅすいずいどう)によってダムに1億6000万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。
この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3000トンの米と甘蔗(かんしゃ)=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。
その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5400万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、44歳の若さでありました。嘉南大しゅうの完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大しゅうの父」として60万の農民から畏敬(いけい)の念に満ちた言葉で称えられました。
八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが3つあると思います。
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そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。
これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。
http://www.nomusan.com/~tabi/taiwan/corallake2004.05.08/LeeTeng-hui_seiron2003.02.pdf
台湾の近代化に尽くした日本人
http://www.a-eda.net/asia/hatta1.html