じじぃの「人の死にざま_1408_小畑・敏四郎」

実録第二次上海事変 帝国海軍報道部撮影記録① Battle of Shanghai 1937 1of 4 Background of Battle 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=k5Hj41FHEo0
プライムニュース 「2015年幕開けに考える “戦後70年”とは何なのか」 2015年1月5日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】半藤一利(作家)、加藤陽子東京大学大学院教授)
太平洋戦争終結から70年を迎える2015年。年初の番組では、昭和史研究の第一人者、作家半藤一利氏をスタジオに招く。
日本はなぜ戦争に突入することになったのか?戦後をどう位置付けてきたのか?
年頭に当たり、歴史の視点から“戦後70年”を徹底検証し、2015年を読み解くヒントを探る。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150105_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150105_1
「作戦の鬼 小畑敏四郎」
上海事変
【引用】国際都市上海における武力衝突は、各国から抗議、妨害が出ない前に 迅速に収拾する必要があると判断した荒木陸相は、真崎参謀次長と協議し、二月に入って間もなく、 参謀本部作戦課長の今村均(一九期、陸大二七期、後大将)を急遽上海に派遣し、 後任に陸大教官であった小畑敏四郎を起用した。  【中略】 緻密、果断な小畑の敏速な処置を期待したに他ならない。 小畑は上海の複雑な国際関係や、上海附近の地形を考慮して、参謀次長に進言して、 二個師団の増派が必要であると力説した。 結局その進言は容れられ、第十一師団(善通寺)と第十四師団(宇都宮)の派遣が決定した。 しかし、この大部隊の上陸地点が問題である。
                    須山幸雄 「作戦の鬼 小畑敏四郎」 P.263
http://www.c20.jp/text/sy_obata.html
小畑敏四郎 ウィキペディアWikipedia)より
畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は日本の陸軍軍人。陸軍中将従三位勲一等。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。陸軍三羽烏の一人。
【来歴・人物】
1931年(昭和6年)11月、犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、翌1932年(昭和7年)2月、同じロシア通で信頼の厚い小畑を再び参謀本部作戦課長に起用する異例の人事を行う。小畑は同年4月に少将に進み参謀本部第3部長に就任(作戦課長の後任は鈴木率道)、荒木の盟友である真崎甚三郎参謀次長の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連支那戦略を巡って鋭く対立、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。
大東亜戦争の戦局が悪化すると、かねて親しい近衛文麿の、東條内閣打倒による終戦工作に関与し、憲兵隊の監視下におかれる。敗戦によって1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮内閣が成立し、近衛や緒方竹虎の意向に沿って国務大臣に就任、約2カ月にわたり下村定陸相を補佐して軍部の収拾に当たる。1947年(昭和22年)1月10日死去。満61歳没。

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『昭和史 1926-1945』 半藤 一利 平凡社 2004年発行
軍国主義への道はかく整備されていく (一部抜粋しています)
明治・大正期の陸軍では長州閥が強過ぎて、ほかから出てくる有鬚な人がなかなか偉くなれない。要職につけないという事情もあり、これでは次の戦争が起きた時に勝てないんじゃないか、なんとなく軍内部を改革しなければと、大正末ぐらいから若手の優秀な人たちが密かに集まって話し合っていました。つまり第一次世界大戦がいみじくも示したとおり、次の戦争は軍だけでなく国民が参加し、国力のあらん限りを費やして戦わなければならない。いわゆる国家総力戦態勢ををつくらなければならない。ところが長州閥に牛耳られているために思うような改革ができない。そこで永田鉄山陸軍士官学校十六期の同級生・小畑敏四郎、岡村寧次の3人、これに永田の右腕の若い東条英機が酸化して、だいたいこの4人で軍内部の改革について唱え、新しい陸軍の建設に向けて動きをはじめていたのです。
そして昭和6年満州事変が起きた年ですが、この4人を中心にしたグループがようやく改革の道をきり拓きました。満州事変についてはもっぱら関東軍板垣征四郎石原莞爾らを中心に話しましたが、実はあの時に東京の陸軍中央(陸軍省参謀本部)では永田、小畑、岡村とともに若手グループが一大勢力をつくっていたのです。
陸軍省では軍事課長・永田鉄山、軍事課員・村上啓作、鈴木貞一、土橋勇逸、補佐課長・岡村寧次、徴募課長・松村正員。
参謀本部では第一課長(作戦)・東条英機、第二課員・鈴木率道、武藤章とメンバーがそろいます。
また張作林爆殺事件の頃に作戦課長だった小畑敏四郎は、満州事変の頃は陸軍大学校の教官になっていました。
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わかりやすく言えば、小畑敏四郎は、日本の最大の脅威はソ連であり、何よりソ連に対してわれわれは準備しなければならないという立場でした。革命後のソ連は5年計画で国力をどんどん強大にしつつありましたから、「予防戦争論」といって、日本はソ連が強くなってから戦うのでは有利といえない。そうなる前に叩いた方がいいという意見です。昨今のアメリカのイラクに対する予防攻撃、つまり大量破壊兵器の使用前に叩けというのと同じ論理です。
対して永田鉄山は、ソ連が強大になるならないの前に、隣に反日排日で日本を敵視している中国ががある。ソ連を相手に満州の曠野で戦おうとする時に、横から中国が出てきて攻撃されたら対ソ連どころではなくなる。まず中国を徹底的に叩くべきだ。今のところ中国は、蒋介石中心になりつつあるとはいえまだごたごたしていてチャンスがないわけではない、今のうちに叩け、これを「中国一撃論」といいます。
つまり、「予防戦争論」対「中国一撃論」の大論争だったのです。
一般の国民は知りませんし、陸軍でも一番内部のところでの論争です。

じじぃの「細かい内容は覚えていない名作・一杯のかけそば!誰も調べなかった100の謎」

上岡龍太郎 笑福亭鶴瓶 一杯のかけそば 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hu9aVNiCMOE
一杯のかけそば

一杯のかけそば
この物語は、今から15年ほど前の12月31日、札幌の街にあるそば屋「北海亭」での出来事から始まる。
http://www7.ocn.ne.jp/~yoshi530/kakesoba.htm
栗良平 ウィキペディアWikipedia)より
栗 良平(くり りょうへい、1954年 - )は日本の作家である。北海道砂川市出身。
1989年、その童話『一杯のかけそば』が2月17日に開かれた衆議院予算委員会公明党大久保直彦が朗読して涙を誘ったということからブームが起こり、映画化もされた。だがその後、自称していた“北海道大学医学部卒”が虚偽だった事が発覚。また滋賀県で寸借詐欺をしたため姿を隠す。
1994年、北海道静内町で人妻を誘惑し1998年まで各地を転々とし詐欺的行為を繰り返した。滋賀県大津市の山中でテント生活を始め、さらに詐欺的行為を繰り返し大津の岩間山正法寺の次女と親しくなり寺は真言宗醍醐派からの離脱を申し出たが総本山醍醐寺は認めず、裁判となって最高裁で敗訴したという。

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ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎』 堀井憲一郎/著 文藝春秋 2013年発行
一杯のかけそば』の細かい内容は誰も覚えていない (一部抜粋しています)
あなたは『一杯のかけそば』を覚えていますか。
いまからちょうど10年前、昭和天皇崩御の年に話題になったお話。5月から6月にかけて日本中を竜巻のように席捲し、そのまま海の藻屑と消えていったあのお話ですよ。お母さん。
覚えているよね。
じゃあ。どこまで覚えているか下の表の質問に答えてもらいたい。もし全問答えられる人がいたら、すぐ週刊文春編集部に出頭してください。探してましたよ。あなた。作者でしょ。もし作者じゃないのに全部答えられたら、あ〜、そのへんの犬にでも自慢してしてください。はい。
あなたは『一杯のかけそば』をあなたは覚えていますか (25人に聞いて覚えていた割合)
①お話の冒頭はいつ、どこで、だれが、何を?   84%
②そば屋の主人はその時どう対応したか      26%
③次に親子がそば屋を訪れたのはいつか      16%
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作者は、このブームの後半で問題の多い人だ、という話になった。ちょっと病的な嘘つきという感じの人だった。でも、おれは嘘つきだとわかって、すばらしいと思ったね。いや、日常生活でも嘘をつく人は、こういう話を作れるのかなあ、と感心したのだ。世間の人は、ウソに厳しいということも、このとき知りましたけど。
また、時代によって、この話に対する反応が違う、ということもわかった。10年ぶりに10代から40代の人に読んでもらったら、30歳あたりを境にキレイに反応が分かれたのである。
上の世代には、まだ、いい話だなあ、と反応する人がいる。が、70年代生まれ以降の世代、20代10代の連中は、誰一人として、いい話だとは思わなかったのだ。たとえば「最後に医者と銀行員になるってとこが、すごくイヤな感じ、何で医者と銀行員なの?」と女子大生は言うのである。それは、ああ、成功したんだよかったね、という意味しかないと言っても、納得しないのだ。貧乏からの成功、という話が通じにくくなってるのだ。ありゃりゃ。もうおれが成功する余地はこの国には残されてないのか、ああ、なんて、そういう話じゃないですね。まあ、彼女が生まれた国はすごいお金持ちだったわけだからねぇ。はい。かけ、一丁! 作者の栗良平さんは行方不明だそうです。
                                (1999年6月10日号)

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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館の中で本巡りをしていたら、堀井憲一郎著 『ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎』というのがあった。
あなたは『一杯のかけそば』を覚えていますか。
これは大晦日に、「北海亭」という札幌の、ある蕎麦屋で起こったお話です。どの蕎麦屋にとっても、一番の書き入れ時は、大晦日です。
から始まるお話。
14年後、青年になった2人と老母が滋賀県から来る。兄は医者、弟は銀行員になっていた。
お話の最後では
「あいよ、かけ三丁!」
めでたし、めでたし。
「最後に医者と銀行員になるってとこが、すごくイヤな感じ、何で医者と銀行員なの?」
『かちかち山』は、日本の民話で老婆を残虐に殺したタヌキを老爺に代わってウサギが成敗するというお話。
悪いタヌキが乗った泥船は水をすってどんどん沈み始めます。悪いタヌキは死にました。ここで終わりになっているのが多いんですが、この『かちかち山』には残酷バージョンがあるんです。
ウサギは死んだタヌキを抱えておじいさんのところへ行きました。おじいさんはとても喜び、タヌキ汁を作りおいしそうに食べました。
一杯のかけそば』にも、残酷バージョンがあるとは言いませんが。
ところで、夏目漱石の名作 『吾輩は猫である』って、どんな内容でしたっけ?