じじぃの「神話伝説_11_崇神天皇」

神話伝説の時代 神武〜崇神天皇

実在する最初の天皇崇神天皇ということですが、彼は具体的にどのぐらいの年代に生きてた人なんでしょうか? 2012/3/6  Yahoo!知恵袋
回答
第10代・崇神天皇は、日本書紀によると、紀元前97年〜紀元前30年の在位となっています。もちろんこれは神武天皇の即位を紀元前660年とする年代観であり、これを信じる人はあまりいませんが、これに近いと考える人がいても不思議ではありません。
また、崇神天皇の時代は卑弥呼の時代よりも新しいという説もあります。卑弥呼の時代は3世紀前半が中心ですが、崇神天皇の時代は4世紀ではないかというわけです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1282876772
邪馬台国 領域国家の旧都/新都
このように記紀の領地拡大をまとめると、神武東征時の領地と邪馬台連合国の領地がほぼ一致する。卑弥呼擁立以前に倭国乱の記述があり、これも神武東征に一致する。連合の過程や不安定さも整合している。よって邪馬台連合国は神武から崇神までの時代と解釈できる。
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/tasakawa/yamatai/contents.html
崇神天皇 ウィキペディアWikipedia)より
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。
和風諡号『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
諡号追号・異名】
崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。
江上波夫は、この「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」は、朝鮮半島最南部の任那(ミマナ)の「城」(シロ=キ)、すなわち「任那の城の王」を意味するとし、崇神天皇を、朝鮮半島を経て大陸から移動し日本列島を征服した騎馬民族の王だとした(騎馬民族征服王朝説)しかし「ミマ」「ミマナ」は古代日本語で「高貴な人」を意味する言葉でもあり、「ミマキ」と任那を結びつける実証性はきわめてとぼしい。現在では崇神天皇を大陸由来の人物とする江上説を信奉する人間はきわめて限られている。

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『日本神話の謎を楽しむ本』 鎌田東二/監修 PHP研究所 2012年発行
崇神天皇 疫病を鎮め、国土を平定したもうひとりの初代天皇 (一部抜粋しています)
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)の治世の始め、三輪山の神オオモノヌシの祟りにより疫病が蔓延し、国内が荒廃してしまった。そこで。宮中で祀っているアマテラスをトヨスキイリビメに託して笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせた。また、オオタタネコにオオモノヌシを祀らせて祟りを鎮めたという。つまり、崇神天皇は王朝の祭祀を調(ととの)えた最初の天皇といえるのだ。
さらにその後、天皇は地方の教化を目的に将軍を派遣して服従しない人々を平定した。まずオオビコを北陸に、その子タケヌナカワワケを東海に、ヒコイマスを丹波に遣わして平定。天下は平穏になって人民は栄えた。『日本書紀』ではこれに西海へ派遣されたキビツヒコを加えて、「四道(しどう)将軍」と呼ばれる。そして即位13年、天皇は狩猟で獲(え)たものや織物を初めて税として徴収し、国家を支配した。
そこで「記紀(きき)」ともに「ハツクニシラス天皇(初めて国をお治めになった天皇)」と記している。
たぶんに伝説的である神武天皇に対し、記述が詳細にわたることから、崇神天皇は実在した最古の天皇といわれる。

じじぃの「空白の世紀・任那はあったのか!本当はどうなんだろう」

DNAでみる古代日本人と朝鮮人【日本語字幕】 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=ju2oToXNbKU
5世紀の朝鮮 (百済

広開土王碑

任那は存在した? (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説) 2005/11/11 教えて!goo
●日本側の主張
宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する『任那』。
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1771530.html
そもそも、任那日本府ってあったんですか? 2008/3/24 Yahoo!知恵袋
回答
結論から言えば、任那という地域は日本の影響下にありました。
ただ、日本府という役所が在って、日本が完全に支配していたとまでは言えるかどうか微妙です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415463884
歴史秘話ヒストリア 「日本にもあった?謎の巨石文明 〜目覚める 飛鳥“石の女帝”〜」 (追加) 2014年10月21日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】斉明天皇 役&ヒストリアンヌ 高島礼子
●エピソード1 巨石群の伝説と珍説を訪ねる飛鳥の旅
 キツネが踊る舞台と伝えられた石舞台。傾くと不作になるといわれたマラ石。10トンを超える亀石は実は動いていて、西を向いたとき奈良盆地が水没……明日香(飛鳥)の石造物にまつわる伝説を訪ねる今回のヒストリアンヌ、女優の高島礼子さん。そうした奇怪な巨石の中には、実は謎解決の手がかりも?
●エピソード2 石の都を築いた “石の女帝”
 飛鳥の巨石群を造った人物として、近年注目されているのが女帝・斉明天皇。彼女の時代、東アジア情勢は緊迫しており、朝鮮半島百済の国が滅亡寸前でした。その百済の遺跡では、飛鳥とそっくりな石の都が出現!これは何を意味する?そして、女帝が石の都と巨石を用いて催したのは盛大なパーティー!?
朝鮮・百済といえば日本文化と切っても切れない昔の朝鮮半島三国時代の有名な国。
王宮里遺跡の発掘が進められている益山(イクサン)が百済の王都であったという王都説が浮上している。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/217.html
任那日本府 ウィキペディアWikipedia)より
任那日本府(みまなにほんふ)とは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。
宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。

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街道をゆく〈2〉』 司馬遼太郎/著 朝日新聞社 1972年発行
駕洛(カラク)国の故地 (一部抜粋しています)
朝鮮の上代史は系譜的にのべることはむずかしい。四捨五入してごく図式的にいえば、はじめにはじめに三韓馬韓辰韓弁韓)時代があり、ついで三国(高句麗百済新羅)時代がきて、やがて新羅が統一をするということがいえる。
この三国のうち、高句麗は北方にある。民族の感じも、あるいは風俗や言語まで韓族とはちがっていたらしい。韓族の国が、南のほうの漢族、新羅百済だが、ところがこの両国にはさまれてちっぽけな国がひとつあった。洛東江下流がうるおしている穀倉地帯にあり、それがいまの地名でいえば金海付近にあった。
その国名は、いろんなふうによばれていた。みな同国を指すのだが、列挙すると、
 金官国
 駕洛国
 加羅(から)国
 伽椰(かや)国
 任那(みまな)国
などとよばれる。
最盛期は非常に大きかったという説もあれば、そうでなくいまの釜山から金海あたり一帯程度がその領域だったという説もある。
日本列島にまだ国家が成立していなかったころ、さかんに倭人(日本人)がここへ往来し、なかには住みついてしまった者もあり、それよりさらに数多くの駕洛国の国人が日本地域にやってきて住みつき、耕地をひらいた。その往来が非常にひんぱんだったということは、日本の古事記・日本書記からも、魏志からも、いくつかのヒントを得ることができる。
朝鮮の民間伝承でも、
「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人では」
ないというのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とちがった風俗をもっていたともいわれる。
ちかごろになると、
倭人というのはかららずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸地方から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」
という説得力に富んだ説まで出ている。さらにまたこの駕洛国のひとびとが日本に弥生式農法と文化をもってきた、ともいう。
駕洛、朝鮮音では、
「Kalak」
である。日本にくると子音の単独発音ができないから最後のkが落ち、カラになる。加羅も当てた漢字のちがいだけで、要するにおなじことばである。伽椰も同様で、l音はy音にかわりやすいためにカラがカヤになったとみていい。
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日本の古事記では、この駕洛国のことを、
任那
という。平凡社の「世界大百科事典」でも、「任那」の項で、
「4世紀の半ばごろから6世紀の半ばごろにわたる200年間、日本が南部朝鮮に持った植民地領域の名」
と、書かれている。「植民地」というヨーロッパ的概念のことばを任那の場合につかうのは、適当ではない。
そういうばかなことはない、という説が、朝鮮の学者からいろいろ出ている。駕洛人こそ日本列島へ進出したのだ、と説くのが、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨氏である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」も大筋はそうである。日本の崇神天皇の名前がミマキイリヒコというが、そのミマは任那のミマであると江上氏は言い、「任那こそ日本の出発点であった」という。いずれも、じつにおもしろい。

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どうでもいい、じじぃの日記。
倭国(日本)が中国の歴史文献において266年から413年にかけて記述がなく、この間を空白の世紀というのだそうだ。
松本清張著 「空白の世紀 清張通史2」によれば、古代、朝鮮と日本はあたかも陸続きのように交流があったそうだ。
だから、韓国の釜山から九州にかけて同じ民族(倭人)が住んでいた。
だいたい、日本人といってもほとんどが、朝鮮からの帰化人なのではないだろうか。
それにしても、2000年も経つとこうも変わるものだろうか、と思う。