じじぃの「神話伝説_81_ハムラビ法典(バビロニア)」

Hammurabi's Code & Mesopotamia social studies 2010 project 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SnYjOqgrdY8
ハンムラビ法典の石刻

目には目を、歯に歯を
対等に向かうこと。受けた害と同じような仕返しをすることの例えです。 
これは、バビロニアハンムラビ法典旧約聖書にある言葉で、イエス・キリストが「山上の垂訓」で用いた言葉として有名です。
イエス・キリストは、旧約聖書モーセの律法を、外側はそのままにして、内部を全面的に改装しました。
そして、「目には目を」を引き合いに出し、復讐の禁止を教えています。
有名な「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という言葉はここから生まれたのです。
http://www.omi.gr.jp/column/column19.html
ハンムラビ法典 ウィキペディアWikipedia)より
ハンムラビ法典(Code of Hammurabi)は、紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典。アッカド語が使用され、楔形文字で記されている。
ハンムラビ法典と聖書】
モーセの律法書のもとになったとみなす学者もいるが、内容的に大きく異なる。 ハンムラビ法典の「目には目」と旧約聖書出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章における「目には目」の律法が似ているため、その関係がよく取り上げられるが、その詳細は異なる。ハンムラビ法典は上述のように、身分の違いによってその刑罰が異なるのに対し、聖書律法は身分の違いによる刑罰の軽重はない。また、聖書の律法は、神と家族間に対する罪など、倫理的な罪はそれと比べて重い処罰が課せられ、物品等の損害など商業的罪に関してはそれと比べ軽い罪が課せられている。
『世界神話伝説大系 5 バビロニアアッシリアパレスチナの神話伝説』  松村武雄/編 名著普及会 1928年発行
バビロニアアッシリアの歴史 (一部抜粋しています)
ウル王朝は没落して、アラビア人の侵入者は、王位を纂奪しました。その後久しくエラムの下に屈服しているうちにバビロニア史上において、最も有名なハムラビ(Hammurabi)が出て全国を統一しました。
この光輝ある、賢い、政治的手腕を有している王は、単に憎むべきエラム人を追ったばかりでは満足せず、さらに遠征軍を進めて、王位に即(つ)いてから32年目に、バビロニアのバビロンを首都とする単一の王国に作り上げました。ハムラビの優しい愛撫によって、バビロニアの芸術と文学とは、遠い現代から眺めてさえ驚くべき程豊饒に花開いたのであります。またハムラビが自分の作り出した帝国の、種々雑多な要素を融合して統一あるものに作り上げた手際は、十に驚異すべきことであります。王はこうして征服した国々を統一して、バビロニアの精力は、実に1500年の間続いたのでありました。王に隷属するすべての種族の福祉こそは、王の絶えざる配慮を費したものでありました。何人も王の訴訟の裁決に満足して、喜んで王の前に出ました。
王の作った法典は、また子孫の勝算を克ち得る一大偉力であって、実に知恵と公平さとの記念塔であります。もしサルゴンアーサー王とすれば、ハムラビは、アルフレッド大王に該当します。この2人の王の生涯は、全く同じ姿を示しております。2人ともその初期においては、自分たちの国を外国の覇絆(きはん)から脱せしめました。2人とも法典を作りました。2人とも、文学の保護者であって絶えずその注意を、国民の欠乏している点に傾けたのでした。
もし偉大なる国民が、しばしば真正に価値ある法典を発達させたとすれば、かかる制度は、必ずその人民を偉大ならしめるものであるということは、記録にも例あることであります。そしてバビロニアセム族にとっても、ハムラビの法典は、彼らを偉大なる国民にしたといっても、おそらく不公平なものではありますまい。この世界的に著名な法典の石碑は、スーサ(Susa)で発見され、今ではルーブルに保存されています。