じじぃの「人の生きざま_487_ジュリー・アンドリュース」

The sound of music - Do Re Mi Fa. 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xIjobdArtiA
Julie Andrews (1935 -) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=25YoQwWOCRs
Julie Andrews

ジュリー・アンドリュース ウィキペディアWikipedia)より
デイム・ジュリー・エリザベス・アンドリュース(デイム・ジュリー・アンドルーズ、Dame Julie Elizabeth Andrews, DBE, 1935年10月1日 - )は、イギリス生まれの女優、歌手、 作家、演出家、ダンサー。2000年、エリザベス2世より舞台芸術の功績でデイムの称号を叙された。
アンドリュースはウエスト・エンド・シアター(英語版)で1948年にデビューした。また1954年の上演作品『ボーイ・フレンド(英語版)』でブロードウェイデビューし、両方ともトニー賞に彼女がノミネートされた『マイ・フェア・レディ』、『キャメロット(英語版)』で世間の名声を得た。1957年にはテレビで1億人以上が視聴したミュージカル『シンデレラ(英語版)』に主演した。
アンドリュースはディズニー映画『メリー・ポピンズ』(1964年)で長編映画デビューし、アカデミー主演女優賞を獲得した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)では2回目のアカデミー賞ノミネートを果たし、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した後者の映画は現在でも最高興行収入を獲得した映画第3位である。。1964年から1967年の間、『卑怯者の勲章』、『ハワイ』、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『引き裂かれたカーテン』、『モダン・ミリー』などでも人気を得て、当時の世界で一番成功した映画スターとなった。

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『世界史映画教室』 家長知史/著 岩波書店 1997年発行
サウンド・オブ・ミュージック 1965年 アメリ (一部抜粋しています)
この映画を見たことがない人でも、「ドレミの歌」なら知っているという人はたくさんいるのではないでしょうか。そう「サウンド・オブ・ミュージック」は、楽しい音楽がいっぱい盛りこまれた、とても魅力的なミュージカル映画なのです。
冒頭、真っ白な雲がとぎれ、壮大なアルプスの山々が眼下に見えてきます。私たちは高くそびえるアルプスの山なみや美しい湖、緑におおわれた大地を上空からじっくりとながめていきます。すると、かなたに広々とした草原を一人歩くマリア(ジュリー・アンドリュース)の姿が見えてきます。私たちは上空から地上の彼女に向かってググーッと迫っていきます。マリアのアップ。すばらしい大自然にいだかれ、若くてはつらつしたマリアは「サウンド・オブ・ミュージック」のテーマ曲をのびのびと歌います。彼女がこの映画の主人公です。さあ、マリアの活躍を一緒に見てみましょう。
時は1930年代後半、場所はオーストリアザルツブルク。尼僧志願のマリアは、自由で活発な歌好きの明るい女性です。ある日、マリアは修道院長からトラップ家の家庭教師をするように言われます。トラップ家では妻に先立たれ、海軍を退役したトラップ大佐(クリストファー・プラマー)が7人の子どもたちを厳しくしつけていましたが、子どもたちは入れ替わりやってくる家庭教師に反発していました。
初対面のあいさつをすませたあと、子どもたちはいつの間にかマリアのポケットに大きなカエルをほうり込み、マリアを驚かせます。夕食時にはマリアのイスの上に松ぼっくりが置いてあり、腰かけたマリアは思わず大声をあげてしまいます。子どもたちのこんな「歓迎ぶり」をマリアはトラップ大佐に言いつけず、大らかに受けとめて子どもたちをかばいます。こうしてマリアは温かい心と明るい音楽で子どもたちを、さらには大佐のこころをつかんでいきました。
やがてマリアと大佐は結婚しますが、次代はナチス・ドイツオーストリアを併合しようとする時代を迎えていました。ナチスを嫌う愛国主義者のトラップ大佐は、ドイツ海軍からの召集令状を受けとるにおよんで、国外逃亡を決意するのですが……。
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一方、映画の中で、ナチスに逆らって家族を引き連れて国外へ逃亡したトラップ大佐とはどんな人でしょうか。現実のトラップは貴族出身のオーストリア海軍の武勲ある退役将校(少佐)で、彼の政治的立場は、オーストリアの支配権をめぐってナチスと争い、敗れた、「オーストリアファシズムというべきシュシュニック体制の支持者」でした。
その証拠に、映画の中でもトラップ大佐は、パーティーのシーンでオーストリアファシズムの記章を首から下げています。
1937年トラップ一家はスイス経由でアメリカに渡っていきますが、これはナチスによる抵抗者の亡命(映画での印象)というより、ナチスとの権力闘争に敗れた者の亡命と見る方が事実に近いといえるでしょう。