じじぃの「人の死にざま_171_竹久・夢」

竹久夢二 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C/5997/
宵待草 竹久夢二 川井郁子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1sfZDWse0Lg
夢二郷土美術館 - ギャラリー
「秋のいこい」 1920(大正9)年/屏風、紙
http://www.yumeji-art-museum.com/05_02.html
『私の好きな美術館 NHK日曜美術館から』
夢二郷土美術館 常に愛とともにあった竹久夢二の美の世界 【執筆者】近藤富枝 (一部抜粋しています)
岡山県旭川のほとりに、竹久夢二の「宵待草」の歌碑があります。私はこの歌碑に刻まれた夢二の字が大好きです。柔らかい。優しい気持ちが表れて、とても色っぽいものです。
波瀾に富んだ人生を送り、漂泊の抒情詩人といわれた竹久夢二。昭和58年、夢二郷土美術館は彼の故郷である岡山の名園・後楽園のすぐ近くに生誕100年を記念して建てられました。すぐ近くには、彼の生家が保存され、また彼自身の設計によるアトリエであった「少年山荘」も復元されて、百余点の作品、関連資料とともに、竹久夢二の生涯が優しく包みこまれているようです。
終生1人の女性の面影を追った夢二
東京・文京区の菊坂の上に本郷菊富士ホテルという古いホテルがありました。大正7年からの4年間ほど夢二はこのホテルで暮らしています。当時の夢二は笠井彦乃というとても素敵な恋人と別れたばかりのころでした。夢二と別れた彦乃は胸を患い、順天堂病院に入院していました。別れてもまだ思いの残る夢二は、その病院の近い菊坂に居を構えたのです。また当時の菊坂には彦乃の出た女子美術学校もありました。後に彦乃はその病院で亡くなりますが、夢二はこの菊富士ホテルでお葉(よう)に巡り会います。この女性は夢二の作品の中でとても重要なモデルとなる人でした。
『秋のいこい』のモデルは彼にとって3人目のモデルとなったこのお葉です。旅行から帰ってきたところでしょうか、大きな荷物と信玄袋を持っています。疲れてはいるようですが、やさしい雰囲気の絵です。彼の絵の中の女たちが着ている着物は、自然に身についています。彼は決して直線で着物を描くことはしませんでした。体にフィットした柔らかい線で描いたのです。
夢二はモダンなことが好きでしたが、古いものにも関心を持っていました。着物は手織りのものが好きで、お葉も日記の中で、夢二が買ってくるものはすべて手織りの着物であったと書いています。中でも彼は黄八丈が好きだったらしく、自分の好きな女性にはいつも、黄八丈をプレゼントしていました。夢二の周りの女性が黄八丈を着ていると、友人たちはその女性が夢二の女になったとうわさしたほどだったそうです。
夢二は帯のデザインもしています。この美術館に展示されている苺のデザインのものは、彼の永遠の恋人といわれる彦乃に与えたものです。夢二の帯の作り方は、ちょこちょこっと自分で縫い、待ち針で柄のところを押さえ、体に巻きつけてアレンジしてしまうという変わったものでした。こうして作った帯を彼は多くの恋人に贈りました。帯以外にも、半襟や千代紙など女性の欲しがるものをデザインして、大正3年、呉服橋の近くに絵草子店。港屋という店を作り、それらを売りに出しています。
     ・
夢二の退廃美の背景
夢二の描く女性はいつも悲しげな表情をしています。今にも泣き出しそうな顔、泣いたあとの顔、疲れたような顔、寂しそうな顔・・・・。うれしそうな顔はありません。みんな退廃的で世紀末的な雰囲気を漂わせています。夢二があえてそのようなモデルを選んでいたのだろうと思われがちですが、実際は彦乃もお葉もとても明るい女性で、その考えはどうも違っていたようです。
こんなエピソードがあります。夢二が菊富士ホテルでお葉と暮らしていたときのこと。ある日2人はひどいけんかをして、「パパがいじめる」といってお葉がホテルの家人のところに逃げこんできたことがあったそうです。そのうちに仲直りして部屋に戻っていったのですが、家人がそっとのぞくと、泣きべそをかいているお葉を、夢二が一生懸命に描いているのを見ました。健康で明るいお葉をいじめて泣かせて描く。お葉はだんだんその雰囲気に慣らされて、けんかをしなくても夢二の要求する顔を作れるようになっていったのです。
夢二の世界がなぜこれほどまでに世紀末的だったのか。その答えは夢二の姿勢にあったのだと思われます。夢二は常に外を見ている人でした。当時の日本よりも一歩も二歩も先を歩いていたのです。彼は外国の雑誌をよく読んでいました。当時の最新のドイツの絵やフランスの絵を熱心に見ていたのです。だからこそちょうどそのころ流行したアール・ヌーヴォーや世紀末の動きを取り入れることができたのでしょう。

                                  • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
竹久夢二 (1884-1934) 50歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治末から大正にかけて、いわゆる夢二式美人がで多くの青年子女を魅了した竹久夢二は、昭和にはいると、あまりにも多い恋の遍歴がスキャンダルとして世の指弾を受けたこともあって、急速に人気を失い、また商業美術の営業化にも失敗してゆきづまった。
昭和7年、新しい刺戟をを求めて外国旅行へ旅立った彼は、あてにしていたアメリカで絵は1枚も売れず、つぎに渡ったヨーロッパでも失意の日を送り、あまつさえ、ここで結核を発病した。
1933年(昭和8年)3月10日、ベルリンでの日記。
「春めきて、外套の重さを感じる。舗道ではあるがせきやまず。煙草うまからず食事すすまず。・・・・1日人を見ずもの言わず、このまま死ぬとも人知らず」
帰国後、彼が肺病でただ1人アトリエで寝ているということを聞いた正木不如丘博士が、自分の富士見高原療養所にはいることを勧めたが、夢二がためらっているのを見て、「金の心配は無用だよ、癒ってから絵をかいてくれればいい」というと、「それはありがとう。そうしてもらえるとありがたい」と、涙をこぼしながらうなずいた。
富士見高原療養所はそのころ実は火の車であったのだが、正木博士は夢二を施療患者扱いにすることはむろん、その気配も感じさせてはいけない、と看護婦たちに命じた。
夢二がそこにはいったのは昭和9年1月であったが、訪れる人はほとんどなく、たまに見舞客があっても、彼のほうでことわった。そのくせ肉親の者がひとりも来ないのを、彼はひどく気にした。正木の見るところでは、肉親のだれかに逢いたいというより、ほかの患者にくらべ、見舞客のないことを、療養所の人々に恥じているように見えた。
「待てど暮せど来ぬ人を
 宵待草のやるせなさ」
しかし、そう歌った若い日はすでに遠く、人生の寂寥(じゃくりょう)の時ばかりが彼を訪れていた。
     ・
夢二は生来無口な男であった。それがいよいよ無口になって、回診にくる正木不如丘にさえほとんど口をきかなくなった。気にいらない看護婦には横をむいて、食事の箸もとらなかった。
春の末から右手に帯状包疹(ヘルペス)を発した。これは激烈な痛みを伴う皮膚病だが、訊(き)かなければ本人は痛みを訴えなかった。これが治癒してから、正木が「手は大丈夫使えるよ」というと、無口な夢二が、「それはありがたい」と、眼をかがやかしてさけんだ。彼は絵がかけなくなることを何よりも怖れていたのだ。
しかし、肺病はしだいに進み、彼はとこどき看護婦に「死」の話をした。しかし、正木には話さなかった。
末期には物凄い悪臭を発する肺壊疽(えそ)を起こし、黒い葡萄色の痰を半日でコップ1杯分を吐くようになった。
死ぬ前夜、夢二は涙を流して泣いた。それは肉親の者のついに来ないことをくやしがってであった。しかしそれは彼みずからまいたたねのせいであった。
そして9月1日午後5時40分、看護婦たちに手足を撫でてもらいながら、眠るように息をひきとった。

                                  • -

竹久夢二 Google 検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=SbVYS8j6JM6TkAWm-ZXoBA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBoQsAQwAA