じじぃの「人の死にざま_48_勝・海」

勝海舟 - あのひと検索 SPYSEE
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新選組勝海舟 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=glI6uH-qWao
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
勝海舟 (1823-1899) 76歳で死亡。
明治31年暮に、海舟は訪問客に、
「おりゃ、もう10日もたって明年になれぁ77になるよ。人生70古来稀(まれ)というが、その古来より7つも余計に生きたよ。まだ身体に別状はないが、何となく死ぬときが近づいたような気がするよ。死んだときは、きっと夢がさめたときと同じようなものだろうよ」
といい、客が先生の銅像を建てたいと思っている、というと、
銅像なんか、時勢の移りようで、いつ大砲や銃砲の弾に鋳(い)られるかわかりゃしない。そんなつまらないことをするより、その費用の3割でいいから、いまのうち金でもらいたいよ」
と、大笑した。
その翌年1月19日午後5時ごろ、常のごとく入浴した海舟は、風呂から上がると坐りこんで「胸が苦しいからブランデーを持って来い」と家人に命じ、それをグラスにいれて、「こんどはどうもいけないかも知れんぞ」といって、一口飲んだとたん、倒れて意識を失った。脳溢血であった。
彼が息をひきとったのは21日の午後5時であった。
幕臣の戸川残花は、「トノサマシヌスグコイ」という電報で赤坂氷川の勝邸に駆けつけた。
「例の小室に入れば室中暗澹として燭火もまた力なく照せり。先生はあたかも安眠するの状に似たり。猛烈の機尽きて慈温の相現われ、あたかも仙客に対するがごとし。
傍に頭巾をいただける老夫人あり。すなわち先生の令妹(順子)にして、佐久間象山先生に嫁したる人なり、何にも申しませんが、ただ『コレデオシマイ』と申しました、と語れり」
さすがは生涯人を食った海舟で、人間最後の言葉の中の最大傑作。
海舟が死んだとき、海軍大臣山本権兵衛であった。彼は若いとき勝家に食客となり、海軍にはいるきっかけを作ってもらった縁もあり、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案したが、海舟が銅像など馬鹿にしていたと聞いて、この計画をとりやめた。

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【元気のでる歴史人物講座】(7)勝海舟 青年時の困窮にも屈せず MSN産経ニュース 2009.2.18
幕末が生んだ一世の巨人・勝海舟は最下級の幕臣で、青年時、困窮生活を送った。だが海舟はこの境遇に屈せず文武両道に努めた。
江戸随一の荒修業で有名だった島田虎之助の下で10年間剣道に励み、21の時、免許皆伝を受けた。これが海舟の人物を鍛え上げた。海舟は単に頭だけの秀才ではなく気力と胆力を十分に備えていた。
そのあとが10年間の蘭学修業である。これまたすさまじい勉学であった。蘭学には「ヅーフハルマ」と呼ばれた蘭和辞典が必須だが60両もしてとても買えない。海舟は1年間10両の損料で借り、昼夜をおかず2部筆写し、1部を売りそれで損料を払った。
その頃、海舟は貧窮のどん底にあった。薪を買う金がないから天井など燃やせるものは皆はがして炊事をした。まことに驚嘆すべき根気と努力であった。写し終わって巻末にこう記している。
「弘化4(1847)年秋業につきて翌仲秋二日終業、予(よ)この時貧(ひん)骨(ほね)に到り、夏夜蚊帳(かや)なく冬衾(ふすま)(布団)なし。唯日夜机によって眠る。しかのみならず大母病床にあり、諸妹幼弱事を解せず。自ら椽(たるき)を破り柱を割って炊ぐ。困難ここに到り又感激を生ず」
貧窮困難は決して人間を駄目にしない。艱難(かんなん)辛苦が偉大な人間をつくるという見本である。「困難ここに到り又感激を生ず」。肺腑(はいふ)の底から吐かれた真男子の一言である。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090218/edc0902180848004-n1.htm
勝海舟
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaishu.htm
余話
今年(2009年)は横浜開港150周年で、来年は、江戸幕府がオランダから買いいれた木製軍艦「咸臨丸」で、勝海舟たちがサンフランシスコ−江戸間を往復してから150年目にあたります。
勝海舟の言葉
「生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ」