じじぃの「科学・芸術_695_マルクス『資本論』」

German town gets huge Karl Marx statue from China 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-Htt6vd43Gw
マルクス生誕200周年

中国共産党マルクス像をドイツの生誕地にプレゼント 2018年05月10日 大紀元日本
共産主義を世に生み出したカール・マルクスの生誕200年を、中国共産党政権は祝っている。
中国中央テレビCCTV)はマルクスの誕生日である5月5日に合わせて、マルクスの生い立ちや逸話など特別番組を組んで、夕方7時のゴールデンタイムに放送した。
https://www.epochtimes.jp/2018/05/33108.html
『冒頭を読む 世界の名著世界の名著101』 熊木信太郎/編訳 論創社 2018年発行
資本論 カール・マルクス(1818〜83) より
プロイセン王国出身の思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱、1848ンに『共産党宣言』を執筆し、49年にはロンドンに亡命。以降は無国籍者として共産主義運動を行なう。主著『資本論』全3巻は1867年から94年にかけて刊行された。
第一篇 商品と貨幣
一章 商品
一、商品における2つの要素――使用価値と価値(価値の実体、価値の規模)
資本制生産様式が普及している社会の富は「商品の巨大な集合体」として、個々の商品はその構成要素として現われる。ゆえに我々の研究は商品の分析から始めるものとする。
まず商品とは、その属性によって人間の何らかの欲求を満たす、人間の外部にある対象である。ここで言う欲求の本質は、それが胃袋から生じたものであれ、あるいは想像の産物であれ、なんら変わるところはない。また、商品がどのようにして人間の欲求を満たすか、すなわち生存手段つまり消費の対象として直接的に満たすのか、あるいは生産の手段として間接的に満たすのか、それもここでは重要ではない。
鉄や紙など有用な物はすべて、質と量という2つの観点から見ることが可能である。すべtの有用な物は多くの属性から構成されているため、様々な形で役立ち得る。それらの多様な側面、つまり様々な使用法を発見することは、いずれも歴史の仕事である。またこれら有用な物に関し、どれだけの量を社会が必要とするかという社会的尺度を編み出すのも同様である。商品尺度が多様なのは、一部には計測されるべき対象が多様な性質を有していること、また一部は慣習が理由である。
ある物体の有用性はその使用価値を形作る。しかしこの有用性は空中にぶら下がっているわけではない。それは商品の物質的特性によって決まるのであり、その特性なしに存在することはできない。ゆえに使用価値もしくは財というのは、鉄、トウモロコシ、ダイヤモンドなどといった商品の物理的本体そのものなのである。商品におけるこの性質は、有用な性質を引き出すのに必要な労働量の大小とは関係ない。使用価値を考察するとき、我々は常に、1ダースの時計、1ヤードのリネン、1トンの鉄といった具合に、確たる量的規定があることを前提としている。商品の使用価値は知識の特殊な領域、つまり商品学の材料を提供する。使用価値が実現するのは使用され消費された場合のみである。社会形態がどういったものであれ、使用価値は、富の社会的形態とは無関係に、富の素材的内容を構成している。またこれより検討する社会形態において、使用価値はまた、交換価値を素材的に構成している要素でもある。
交換価値はまず量的比率として、すなわちある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される際の割合として現われる。この比率は時と場所によって絶えず変動している。したがって交換価値は偶発的かつ純粋に相対的な形をとり、結果として商品と不離の関係にある内在的価値などという表現は形容矛盾のように思われる。

じじぃの「心の起源・多細胞生物・心とは何だろう!世界を知る101冊」

What is Compassion? 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=9-UZ0hn_Tpc
 共感・共苦 compassion

世界を知る101冊――科学から何が見えるか』 海部宣男/著 岩波書店 2011年発行
心の起源――生物学からの挑戦 木下清一郎著/中公新書 '02 より
私たち人間は一人ひとり、心という不思議なものを持っている。心に支配されている、と言うべきかもしれない。
  花みれば、そのいわれとはなけれども、心のうちぞ苦しかりける
と、西行さんの歌にもあったっけ。自分のものなのに、コントロールが効かない。心とは何だろう。
心を考えても、なにぶん考察している主体が心自身だから、自己撞着(どうちゃく)はある程度避けられない。それを前提に置きながら、練達の生物学者が、不可思議極まる「心」に向き合った。「心を科学的に追いかけたって、意味があるのか」との疑問もあるだろう。だがこれまで取り上げた本にもあったように、心=精神が進化とともにあらわれ発達してきたことは、否定できない。明日を考え、想像をめぐらし、死を意識するようになった人間の心が、宗教や芸術を含む広大な世界を作ってきた。その成り立ちから考察することで、心の奥にひそむ構造や限界、発展の可能性が少しずつ理解されてきたら、大きな意味を持つのではないだろうか。
じっさい、人間の心の科学的理解をめざす学問の発達は、著しい。現代人の心を生物進化の産物としてみることで理解していこうとする進化心理学も、注目される。そうした中で著者は生物学、とりわけ発生学を基礎に、心の発生と進化に迫る。ユニークなアプローチだ。とかく「まともな研究者はほかの分野に手を出すものではない」とされ、結果として新しい分野はほとんど海外から輸入せざるを得ない日本でこうした著作が出ることも、愉快である。
中味を、つまみぐいしてみよう。著者はまず、心の基礎は記憶だという。記憶がなければ、過去未来の時間概念や空間の概念も生まれない。記憶には、いろいろなレベルがある。内分泌系や免疫系でも、遺伝子が仕込んだ記憶が外からの刺激に反応する。だが動いて餌を採るために神経系を発達させた「動物」で、記憶は多様化した。発生学から見ると、知覚の神経系と行動の神経系は並行して発達する。それを結ぶ介在神経が、判断の中枢として脳になってゆくというのも、面白い。
一方、内分泌系だけでも、個体として充実したか否かといった「気分的な」感覚を生物は持ち得るのではないかと著者は考える。神経系をもたない植物はさしずめ、「気分のみの世界」で生きているのかもしれない、のだそうだ。だからと言って、植物に話しかけても、神経系がないのだから反応してくれません。
もう1つ、単細胞生物は、際限ない分裂を繰り返すので、基本的に不死である。ところが細胞が集まった多細胞生物は、わずかな生殖細胞を除いて、死ぬ運命になった。その多細胞生物の脳に生まれた人間の心は、死すべき存在であることを自ら悟ったために、切に不死を願う。そういう不合理さを最初から抱えているのが、私たちの心というものであるらしい……。むろん大きな課題への試論だし、私にしてもすべて納得というわけにはいかない。物質世界の「自己展開」を支配する法則として、筆者はエントロピー増大則を挙げる。わたしなら、かわりに宇宙膨脹を挙げるかな。そういう見解の異同はあろうとも、十分に刺激的で考えさせる本なのである。
本能による記憶から進んで、経験による入れ替えができる記憶が登場すると、「選択」が可能になる。それが自由意志、すなわち「心」の出発点となる。心を持つことは生命にとっては危険でもあったという著者の指摘は、とても重要である。それまでは本能という、進化の中で、一応は証明済の方針に従っていれば、なんとか生きのびていられた。しかし自由な選択は、間違うかもしれない。自由選択が有効であるには、生存のためのより正確な知覚、豊富な記憶、すばやい照合が必要になる。そうした必要に基づく意識の発達は遺伝子を越え、新しい発展の可能性を開いた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
心とは何だろう。
デカルト心身二元論を唱え、脳の「松果体」を物質と精神が相互作用する場所とした。
この論理でいえば、植物は脳を持たないので「心」は存在しないことになる。
「その多細胞生物の脳に生まれた人間の心は、死すべき存在であることを自ら悟ったために、切に不死を願う。そういう不合理さを最初から抱えているのが、私たちの心というものであるらしい」
それでは人間らしい心の持ち主とは。
サイコパスは「良心」と「共感性」が欠落しているらしい。
大人の発達障害のじじぃ。良心と共感性に問題があります?