じじぃの「科学・芸術_692_船乗りシンドバッド・ペルシャの首都クテシフォン」

Sinbad: Legend of the Seven Seas - Sinbad meets Eris [Japanese] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eTVuUwph4do
ペルシャ クテシフォン

Ctesiphon

シンドバッドとは コトバンク
千夜一夜物語》に登場するバグダッドの豪商。
7回の航海に出たので〈船乗りシンドバッド〉と呼ばれた。故郷に帰ってその冒険譚を語る。ロック鳥に連れ去られたときダイヤモンドの谷を発見したのはその冒険の一つ。

                          • -

ペルシャ湾 横山三四郎/著 新潮選書 2003年発行
船乗りシンドバッドの海 より
アレキサンダー大王の死とその帝国の崩壊で、アラビア征服計画は放棄された。だが、大王の目をペルシャ湾の対岸に向けさせた要因までがなくなったわけではない。乳香(olibanum)や没薬(myrrh)を産するという砂漠の奥の国は、依然として神秘的であり、人々の関心を引きつけて止まないところだった。
そして、ペルシャ湾とその周辺は、紀元前夜から貴重な香料を手に入れようとする民族の競り合いに徐々に、しかし確実に巻き込まれていく。
     ・
インド洋には定期的に季節風が吹く。4月から7月半ばにかけて南西風、11月から3月にかけては北東風である。これをうまく利用できるならば、暗礁が多く、しかも遠まわりの沿岸航海でなく、インド洋を一挙に横断しての航海ができるわけで、ローマではこの季節風のことを地中海人として初めて発見した二との名に因(ちな)んで「ヒッパロスの風」と呼んだ。
アラビアの船乗りたちの秘密だったインド洋横断航路の存在が伝えられると、当時の海上交易の様相は劇的に変わった。ギリシャ、ローマ人がインド方面に直接行き、インド人貿易商もエジプトまで来るようになる。そして古代メソポタミア文明インダス文明の橋渡しで繁栄したディルムンさながら、中継貿易で利益を得ていたアラビアはもはや素通りとなって没落の道をたどる。
     ・
こうして広がりつつあった東西の海上交易に、ペルシャ人も参入してくる。紀元226年、アルダシール1世(在位・226-241年)がパルティア(古代イランの王朝)を破り「シャー・ハン・シャー」(王のなかの王)を名乗ってササン朝ペルシャを建ててからである。
それまではパルティアが中国との隊商路をおさえ、絹の中継貿易を一手に独占していたが、ササン朝はこの陸のシルクロードを引き継ぐとともに、海上の交易も積極的に行う。王朝末期にはホスロー1世(在位・531-579年)が575年、当時、アビシニア(エチオピア)に支配されていた南アラビアから支援を求められて兵を送り、解放した。そしてペルシャはそのまま居座って、戦略的にも、また経済的にも重要なアラビア半島の香料産出地帯を領土に併合してしまうのである。海上のスパイス・ルートの支配にペルシャ王が自ら乗り出したわけで、セイロンにまで遠征軍を繰り出したという。
ササン朝ペルシャはアケメネス王朝などのペルシャの伝統の上に地中海世界の影響もあって、かつてない絢爛の繁栄をみせた。インドからアラビア半島に至る広大な帝国のの首都クテシフォンの貴族たちは文芸、学問も尊び、歴代の王はビザンチン帝国はもとより、インドの宗教、哲学、天文学、医学関係とあらゆる書籍を集め、翻訳させた。これらの本は後年、ギリシャ語に翻訳され、これによってヨーロッパ人は知識を得て近代文明を築いてゆくわけである。
それはさておき、首都クテシフォンには、中国、インド、アラビア、エジプト、ローマなど当時のいわば全世界からの貴重な品々が流れ込んだ。輸入品は生糸、織錦、陶器、化粧料、香料、ガラス、パピルスなど、この見返りとして穀物、手工芸品、絨毯などが輸出された。ササン朝はその位置から物流の中継基地でもあり、とくに生糸の輸入は国家事業とされ、自ら加工しては東ローマ方面に輸出して利益をあげた。
この交易がいかに盛大なものであったかは、ササン朝ペルシャでつくられた、あるいはその意匠を借りた水さしやカットグラスなどの優美な工芸品が中国を経て日本にもたらされ、正倉院を満たしていることからもうかがえる。唐の百万都市長安には波斯寺(ペルシャ寺)が設けられ、胡妃(ペルシャ娘)が夜光の杯(ガラスのさかずき)に酒を注いで大変なペルシャ・ブームだったというが、これもペルシャ商人の活躍があればこそだった。
これらの東西貿易は、もはや陸のシルクロードだけによるものではなくなっていた。ペルシャ人たちはティグリス・ユーフラス河口の商港バスラを最大基地に、ペルシャ湾経由、世界各地に船を進める。湾北の港シーラーフも繁栄していったが、ペルシャの商人、船乗りたちはインド、セイロン、マレー半島などに植民地さえ設けて進出していった。

じじぃの「パレオマニア・私は何のために生きているのか?世界を知る101冊」

イギリスの旅 21 「大英博物館 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=DAl57KoxGho
Cave of Altamira

【解説】世界最古の洞窟壁画、なぜ衝撃的なのか? 2018.2.26 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
当初、ネアンデルタール人は脳よりも筋肉が発達しているタイプであると考えられ、ある科学者などは「ホモ・サピエンス(賢いヒト)」との対比で「ホモ・ステューピドゥス(愚かなヒト)」と命名するべきだと主張していた。けれども1950年代以降、専門家の間では、ネアンデルタール人の見方が大きく変わった。彼らが心を込めて死者を葬り、石器を作り、薬草を利用していたことがわかってきたからだ。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/022600087/
世界を知る101冊――科学から何が見えるか』 海部宣男/著 岩波書店 2011年発行
パレオマニア――大英博物館からの13の旅 池澤夏樹著/集英社インターナショナル '04 より
出かける前に、その国の歴史を読む。現地で時間ができたら、博物館へ行く。そういう方は多いだろう。歴史を読んで文化とその背景を多少なりとも理解しておくことは、訪ねる国への礼儀だ。それに現場での見聞の理解が格段に深くなるから、大いにトクである。次の訪問への期待も生まれる。
美術館、ショッピング、名所めぐりと数あるなかで、まず博物館に駆けつける私も、どうも著者の言う「パレオマニア」、誇大に録り付かれた仲間であるらしい。ただ、いつも時間が足りない。心ゆくまで時間が使えたら、どんなに楽しいだろう。そんな夢を贅沢に実現してみせたのが、この本である。まさしく垂涎(すいぜん)の旅行日記。文明の本質を問い続け追い続ける、”考える旅”へのいざないでもある。
旅行者は、著者の分身たる「男」。彼は大英博物館の小さな美しい展示物に目を留めて、はるか昔にそれを作った人のことを考える。その地に行って、彼に会いたくなる。そして行ってしまう。出かけた場所は、ギリシャ、エジプト、インド、イラン、カナダ、イギリス(ケルト)、カンボジア、ヴェトナム、イラク、トルコ、韓国、メキシコ、オーストラリア。
「男」は訪れた遺跡を見て、解説するかわりに考える。遺跡の中に座り込んで、考える。これを作った人々の暮らし、喜怒哀楽について、人の生活において、古代と現代とでなにか本質的な違いはあるのだろうか? 現代は遺跡に残した古代の人々のように、何千年もの未来に向けて何かを語ることができるのだろうか?
「男」は、トーテム文化のにおいが今も濃厚に漂うカナダの島々を訪ねる。そこでは一瞬、オキアミから人々の信仰・文化までの連鎖、「見るべきものの全容」を見たように感じる。
     ・
最後の訪問地であるオーストラリアで、問いかけは深まる。6000年もの昔から宗教的な考察をすばらしい物語と絵に託していた、先住民アボリジニ。何も所有せず、もちろん都市も文明も持たなかった彼らの存在自体が、人間にとって大切なものは何なのかという強烈な問いかけだ。
それにしても、大英博物館はすごいところだ。大英帝国の収奪の展示場と言えばそうだろうが、ここを訪れる誰もが具体的なモノをとおして世界中の過去と出会える場所でもある。ロンドンに戻った「男」は、イギリス人の関心の持ちようについて考える。彼らは関心の深さと広さによって「世界」という概念を発見したのだと、現代文明と滅びた数々の文明を考える旅は、ここで閉じる。
過去と現在、遺跡と心の旅のガイドブック。

                        • -

どうでもいい、じじぃの日記。
昔、森本哲郎著『神の旅人 聖パウロの道を行く』という本にこんなことが書かれていた。
「なぜパウロはペトラへ向かったのであろうか」
哲学者・森本哲郎パウロが歩いた道を、旅するという旅行記だった。
「パレオマニア」(古代妄想狂)と呼ばれる人たちがいる。
私は思う。
約4万年前、スペインやフランスで洞窟壁画を描いたシャーマンはどんな人たちであったのだろうか。
彼らがどんな言葉を話していたのか、おばあちゃんはいたのだろうか。
古代と現代の人間とで、何か本質的な違いはあるのだろうか。
彼ら頭蓋骨を前にしたとき、彼らはどんなメッセージを発してくれるのだろうか。