じじぃの「神話伝説_65_最後の審判(キリスト教)」

最後の審判(The Last Judgement) 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=K3dLbnyKW-c
死んだらどうなる?死後の世界 仏教,キリスト教,ユタ?ヤ教,イスラム教,神道 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SB2q_0wB9_c
ヨハネの黙示録 最後の審判

教理一覧
よくテレビや新聞、雑誌で エホバの証人統一協会などの宗教団体を耳にしたり、目にしたりしますが、正統的なキリスト教会と「何が違うのか?」と疑問に思うかも知れません。
または、同じ宗教と誤解をしている方が居るかもしれません。
http://www.h6.dion.ne.jp/~tgbc-hp/kyouri.htm
最後の審判 ウィキペディアWikipedia)より
最後の審判(Last Judgement)とは、新約聖書にあるキリスト教用語である。ただし、キリスト教終末論の相違点がある。
キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるという。
アウグスティヌスは、キリストが生ける者と死せるものを裁くために天から来られる最後の審判について「最後の」、「終りの」という語を付けるのは、神が常に人を裁いておられるからだと教えている。
ゾロアスター教 ウィキペディアWikipedia)より
ゾロアスター教(英語: Zoroastrianism)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの徳(三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。この来世観は、のちの後期ユダヤ教キリスト教、さらにはイスラームへも引き継がれた。
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。

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『眠れないほど面白い死後の世界: 前世、臨死体験、輪廻転生……の謎に迫る!』 並木伸一郎/著 王様文庫 2014年発行
最後の審判」――天国の門はどれだけ狭いのか? (一部抜粋しています)
キリスト教における「死後の世界の構造」をざっくり紹介しよう。
死んだ人間の魂は、天使によって連れられ、神の裁きを受けた後、生前の行為によって上位から「天国」「煉獄」「辺獄(リンボ)」「地獄」の4つの世界に振り分けられる。
天国以外は”獄”という字がつくため、さぞ恐ろしい世界と思われるかもしれないが、たとえば「煉獄」は、天国と地獄の中間の位置、つまり地獄にいくほどでもないが、生前に何らかの”罪”を犯した人間の魂が行く場所だ。
この煉獄では恐ろしい炎が燃えさかっており、ここに来た”魂”は、この炎で身を焼き、天国におもむくべくひたすら魂の浄化にはげむのだという。
つまり、罪を犯した魂に”猶予期間”が与えられる場所なのだ。この煉獄で一定の成果をあげた魂は、後に説明する「最後の審判」の際、より上のランクの世界に救い出される。
ちなみにこの外面を作ったのは、古代キリスト教において最も影響力を持ったといわれる、4〜5世紀に活躍した神学者アウレリウス・アウグスティヌスだ。『聖書』には記述がないこともあり、この煉獄の観念はカトリック独自のものだという。そのため、聖書中心主義であるプロテスタントからは認められていない。もちろん、ユダヤ教イスラム教にも存在しない。
そして、「天国」は、あるにはあるが、実はまだ未完成だ。
神の国、つまり「天国」が完成するのは、「最後の審判」の後だ。この世の終わりがきた後にようやく、”神が霊的支配をする国””恩寵の国”が成立するのだという。
すでに亡くなったキリスト教徒たちがおもむいた「天国」や「地獄」「煉獄」「辺獄(リンボ)」などは、あくまでも仮の場にすぎない。「最後の審判」があってこそ、真の「天国」と「地獄」が出現するからだ。
この「最後の審判」とは、簡単にいうとキリスト教の契約の「神」、唯一神による救済のプログラムの最終段階だ。
そもそも、アダムとイブが楽園を追われて以後、人間はすべて罪人とされた。
そんな人間たちの罪を償うべく、十字架にかけられたのがイエスだ。イエスゴルゴタの丘に磔にされた後、3日目に復活し、今なおこの丗を救済し続けている。
このことは、『コリントの信徒への手紙1』のパウロの言葉からも読み取れる。曰く、
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(中略) そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」(15章22〜26節)
これはつまり、最後の審判」の到来により、そのときに生きていた人たちも一度死ぬことを意味している。
そして、これまでの死者とともに、全員が肉体を持った形で復活し、みな一様に”審判”にかけられ、「天国」もしくは「地獄」に永住するというのだ。

じじぃの「お寿司の鯖・生サバは寄生虫(アニサキス)だらけ・がん診断?雑学王」

線虫(せんちゅう)という寄生虫でがん検査ができる方法が開発されました 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rv5Ti9Vsnec
サバの三枚おろし&バッテラ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eH6EBPN0BSg
バッテラ

がん診断、尿1滴で=線虫の習性利用−10年後の実用化目指す・九大など 2015年03月12日 時事ドットコム
がん患者の呼気や尿には、特有のにおいがあることが知られており、「がん探知犬」を使った診断手法が研究されている。しかし探知犬は育成に時間がかかり、普及には課題が多い。
九大の広津崇亮助教伊万里有田共立病院(佐賀県有田町)の園田英人外科医長らの研究チームは、体内に寄生した線虫アニサキスを手術で取り除こうとした際、未発見の胃がん部分に集まっていたことに着目した。
研究チームは、実験動物として使われる線虫C・エレガンスを用意。この線虫は犬と同程度の嗅覚受容体を持ち、好きなにおいに集まり、嫌いなにおいから逃げる習性(走性行動)がある。事前の実験で、がん細胞のにおいを好むことが分かった。
研究チームは健常者218人、がん患者24人の尿を採取。実験皿の上に1滴ずつ垂らし、線虫の走性行動を調べた結果、健常者207人と、がん患者23人を正しく判定した。がん患者をがんと診断できる確率は95.8%に達し、がんの種類や進行度にかかわらず判別できた。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201503/2015031200036&g=soc
そういえば、しめ鯖って、寄生虫とか大丈夫ですか? 2009/3/22 Yahoo!知恵袋
回答
酢でしめた程度だと寄生虫は死にません。当然のこってますね。
でも業務用のシメ鯖は大抵生からではなく、温度がマイナス20度以下の冷凍保存を一日行い、寄生虫を殺しています。
安心して食べてくださいな。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424406034
『雑学王話のネタ大事典 会話の達人になれる』 /博学こだわり倶楽部/編 河出書房新社 2013年発行
サバの押し寿司をどうして「バッテラ」という?
バッテラといえば、サバの押し寿司のことだが、考えてみれば、奇妙な名前である。なんだか日本語の名前らしくないが、たしかにそのとおりなのだ。
バッテラは明治20年代、大阪ミナミの、ある寿司屋がコノシロを寿司に使い、これをバッテラとよんだのが最初である。
なぜ、バッテラかといえば、当時、大阪の川を走っていたボートをバッテラとよんでいたことと関係がある。バッテラは、もともとポルトガル語でボートのこと。このバッテラ・ボートの形と、コノシロの片身の尻尾のはねている形が似ているところから、コノシロの寿司をバッテラとよぶようになった。
バッテラのネタはコノシロからサバに変ったが、呼び名はいまも同じである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『雑学王話のネタ大事典 会話の達人になれる』を見ていたら、「サバの押し寿司をどうして『バッテラ』という?」があった。
話は変わるが、サバとかイカに「アニサキス」という線虫が寄生しているらしい。
このアニサキス、最初は幼虫の時オキアミの体内にいて、そのオキアミをサバとかイカが食べる。そして、サバなどの体内の皮と身の間に共生するらしい。
成長すると丸くなって、5センチぐらいの大きさに成長するのだとか。
人が生サバを食べた場合、この寄生虫が胃の中で暴れることがあるという。
これが痛いというもんじゃない。七転八倒し、気絶する人もいるらしい。
てなことが、『週刊現代 3・21』 伊集院静「それがどうした」に書かれていました。