じじぃの「人の死にざま_783_B・リーマン」

魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い 動画 Youtubeo
https://www.youtube.com/watch?v=jKT3hhbLDD0
TEDのすゝめ (TED 英語 スーパープレゼンテーション)
アダム・スペンサー 「コメディアンの恋する素数
素数」とは、1とその数自身以外で割り切ることができない自然数のことですね。う〜む、中学の数学だっけ?
スペンサーさんはオーストラリア人なので、”day” の発音が「デイ」じゃなくて「ダイ」ですね。ひと口に「ネイティブ英語」といっても、世界中さまざまだということをお忘れなく。
http://ameblo.jp/omg1287/
フナハシ学習塾数学61 リーマン予想
ゼロ点の位置を4つほど求めたリーマンは予想外の事実に気づきます。
これら4つのゼロ点は予想に反し一直線上にならんでいたのです。
もしかしたら、これから見つかる全てのゼロ点も一直線上に並んでいるのではないか。
http://homepage3.nifty.com/funahashi/suugaku/suu61.html
オックスフォード白熱教室 「素数の音楽を聴け」 2013年10月4日 NHK Eテレ
数学の世界の最も基本的な単位であり、“数の原子”ともいわれる「素数」。
基本単位でありながら、素数はなぜてんでんばらばらに並んでいるのか?
その並びには、意味はあるのか?
数々の数学者が挑んでは敗れたこの謎に迫るのが、数学史上最大の難問「リーマン予想」だ。デュ・ソートイ教授が素数の世界を音楽にたとえて、その不思議の国へ誘う。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/oxford/131004.html
NHKスペシャル 「魔性の難問 〜リーマン予想・天才たちの闘い〜」 2009年11月15日
数学史上最難関の難問と恐れられ、今年問題発表からちょうど150年を迎えたのが「リーマン予想」である。数学の世界の最も基本的な数「素数」。数学界最大の謎となっているのが、2,3,5,7,11,13,17,19,23・・・と「一見無秩序でバラバラな数列にしか見えない素数が、どのような規則で現れるか」だ。数学者たちは、素数の並びの背後に「何か特別な意味や調和が有るはずだ」と考えて来た。「リーマン予想」は、素数の規則の解明のための最大の鍵である。最近の研究では、素数の規則が明らかにされれば、宇宙を司る全ての物理法則が自ずと明らかになるかもしれないという。一方、この「リーマン予想」が解かれれば私たちの社会がとんでもない影響を受ける危険があることはあまり知られていない。クレジットカード番号や口座番号を暗号化する通信の安全性は、「素数の規則が明らかにならない事」を前提に構築されてきたからだ。
番組では、「創造主の暗号」と言われる素数の謎をCGや合成映像を駆使して分かりやすく紹介し、素数の謎に挑んでは敗れてきた天才たちの奇想天外なドラマをたどる。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20091115
ベルンハルト・リーマン ウィキペディアWikipedia)より
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826年9月17日 - 1866年7月20日)はドイツの数学者。解析学幾何学、数論の分野で業績を上げた。アーベル関数に関する研究によって当時の数学者から高く評価されたが、先駆的な彼の研究は十分に理解されず、20世紀になって彼のそれぞれの研究分野で再評価されるようになった。19世紀を代表する数学者の一人である。
彼の名前が残っている数学用語に、リーマン積分、コーシー=リーマンの方程式、リーマンのゼータ関数、リーマン多様体、リーマン球面、リーマン面、リーマン=ロッホの定理、リーマン予想などがある。
【生涯と略歴】
ハノーファー王国ダンネンベルク近くの小村ブレゼレンツに牧師の息子として生まれた。1847年に、ゲッティンゲン大学に入学、ガウスと初めて出会う。同年ベルリン大学に移り、ディリクレ、ヤコービ、アイゼンシュタインから楕円関数論や偏微分方程式論を学ぶ。1849年にゲッティンゲン大学に戻り、1851年にガウスのもとで論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した。(ガウスは若い数学者をほとんど評価しなかったが、リーマン幾何学に関する講演を高く賞賛した。)二つの論文によって、複素解析の基礎づけとリーマン幾何学を確立した。1857年に予備教授となり、1859年にディリクレの後継者として正教授になった。1862年に妹の友人エリーゼ・コッホと結婚して娘が生まれる。この時期から病状が悪化してイタリアで療養するようになる。1866年に旅の途中にマッジョーレ湖の近くで39歳で亡くなった。その生涯についてはリーマン全集に掲載されたデデキントの小伝がある。
【主要な業績】
複素解析の分野はコーシーが独力で研究していたが、リーマンは1851年の学位論文でコーシー=リーマンの微分方程式複素関数の定義として(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでいた)、さらに写像リーマン面など新たな成果を組み込むことで複素解析の基礎づけと共に理論的な発展をさせることになった。1854年の教授資格講演「幾何学の基礎にある仮説について」では、初めて多様体の概念を導入して、リーマン幾何学を確立した(後にアインシュタインによって一般相対性理論に応用された)。リーマンが当時の数学者によって高く評価されたのは、学位論文の続編となる1857年の論文「アーベル関数の理論」によるところが大きい。この論文で、彼は楕円関数論での未解決問題であったヤコービの逆問題を解決し、アーベル関数論を完成させた。リーマンは楕円型偏微分方程式によるモジュライの理論の研究の先駆者となり、双有理同値、ヤコビ多様体、テータ関数論などの研究はその後の代数幾何学の研究の端緒となった。
三角級数による表現に関する論文では、リーマン積分の概念を提示することで、実解析の基礎づけに寄与した。数論については1859年の論文「与えられた数より小さい素数の個数について」が唯一の論文であるが、彼の複素解析の方法の一つの応用である。ゼータ関数についてのリーマン予想を述べ、解析的整数論の重要論文の一つとなった。この予想は21世紀になっても重要な未解決問題の一つとなっている。

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『重力の再発見―アインシュタインの相対論を超えて』 ジョン・W・モファット/著、水谷淳/翻訳 早川書房 2009年発行
時空の幾何 (一部抜粋しています)
1912年夏にアインシュタインは、自らの新たな重力理論では非ユークリッド幾何学が重要な役割を果たすはずだということに気づく。このとき、特殊相対論には、のちにエーレンフェストのパラドックスと呼ばれるようになる問題があることを悟った。等速で回転する円盤の縁は、静止している観測者から見ると、ローレンツ収縮によって短くなっているはずだ。しかし、円盤の半径は運動に対して垂直なので、変化はしない。したがって、円盤の縁と半径の比は、ユークリッド幾何学における2πと食い違ってくる。こうしてアインシュタインは、回転座標系を含めるように理論を一般化すると、ユークリッド幾何学が成り立たなくなるという結論に達した。重大な発見でそれが一般相対論への道を切り開くこととなった。
アインシュタインは理論を進めるにつれ、考えたことを記述する上で自分に使える数学が不十分であることに、不満を募らせていった。そんな中、アインシュタインの友人である有能な数学者で、2人が学生時代に出会ったチューリヒのETHで数学部長になっていたマルセル・グロスマンが、19世紀のドイツ人数学者ゲオルク・ベルンハルト・リーマンの考えた非ユークリッド幾何学を使ったらどうかと提案する。
リーマンは再起溢れる数学者で、時代を何年の先んじていた。そんなリーマンが編み出した有名な幾何学は、湾曲した面を記述するもので、そこではユークリッド幾何学と違って平行線が交差しうる。リーマンも物質が幾何を歪めるという考えを思いついたが、四次元時空という概念は50年先にならないと登場しないため、そのアイデアを三次元非ユークリッド空間に当てはめた。さらに幾何が力を生み出すとも結論したが、それは当時としては驚くべき洞察力と言える。
アインシュタイングロスマンの提案を受け、構築中の理論にリーマン幾何学を採用したが、それで満足することはなかった。さらに、リーマンの指導教授だったカール・フリードリッヒ・ガウスが編み出した”計量テンソル”という概念と、イタリア人数学者トゥリオ・レヴィ=チヴィータによる微分法も取り入れた。計量テンソルは、時空内における無限小の距離を決める。そしてそこから、現在ではおなじみの、歪んだ時空の幾何を表わす格子が導かれる。球面に描かれた三角形の内角の和は、平坦なユークリッド表面と違って180度にならない。計量テンソルは、そうした平面や球面といった面の幾何を数学的に記述したものだ。
計量テンソルという道具を使わなければ、歪んだ四次元時空を数学的に記述するのは不可能だろう。アインシュタインの考えでは、計量テンソル重力場の強さを決めるだけでなく、空間と時間のあらゆる方向における距離のスケール、そして重力場内での時計の進む速さも左右する。計量テンソルは時間と空間の関数10個から構成されていて、その10の自由度すべて――ゲージ自由度と呼ばれるものを覗く――が、歪んだ重力場の記述に使われる。
一般相対論を作り出す上で欠かせなかったもう1つの道具が、特殊相対論においても時空を記述するための自然な数学言語として使われた、ミンコフスキーの考案した数学形式だった。アインシュタインはリーマン幾何学テンソル解析の数学形式を組み合わせ、重力と、電磁気のような重力以外の物理の場の方程式として、一般共変原理と等価原理に矛盾しないものを導くことに成功した。

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Bernhard Riemann Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=Bernhard+Riemann&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=Bernhard+Riemann&gs_upl=0l0l0l78lllllllllll0&oi=image_result_group&sa=X

じじぃの「世界遺産・チュニジア・エルジェムの円形闘技場!封印されたミステリー」

チュニジアの観光地図
http://www.i-wanna-travel.com/map-tunisia.gif
Roman Amphitheatre at El Djem 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bDDyEMg34Os&feature=related
Global Treasures: EL DJEM Tunisia 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QVFRbcvSVWQ&feature=related
エル・ジェム Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A0&start=10&hl=ja&sa=N&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&source=univ&tbm=vid&tbo=u&ei=BOLuTsP4GMTImQXWtuyWCg&oi=video_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CCQQqwQwAzgK
カルタゴ遺跡,チュニジア,アフリカ Carthage Tunisia 8 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oajsh0Gs5so&feature=related
カルタゴ遺跡 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1+&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&gs_upl=0l0l5l81237lllllllllll0&aqi=s1&oi=image_result_group&sa=X&q=%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1&tbm=isch
世界遺産ライブラリー [エル・ジェムの円形闘技場] NHK世界遺産
チュニジア南東部のエル・ジェムは、かつてローマ帝国の属州として繁栄を誇りました。3世紀、その繁栄を示すべく、ローマのコロセウムに匹敵する巨大な円形闘技場が造られました。
「シリーズ世界遺産100」では、保存状態がよい円形闘技場の全貌と、当時としては最新の建築技術を紹介します。
円形劇場の周囲は400メートル、収容人員は3万5千人。アリーナと呼ばれる中央の舞台の直径は65メートルに及びます。外層は後に三分の一ほどが破壊されましたが、三重の層をなすアーケードで囲まれた重厚な姿は当時のままです。
エル・ジェム円形闘技場の特徴は、建物を建てる最初から、地下通路が予定されていたことです。地下通路には出番を待つ野生動物や、剣闘士たちの部屋があります。猛獣がアリーナの下から登場する仕掛けに、人々は歓声を上げたのです。
この円形闘技場の建設資金は、オリーブがもたらした富でした。ローマの穀倉地帯と言われた北アフリカの地でも、エル・ジェム周辺は特にオリーブオイルの生産で潤った土地でした。エル・ジェムの貴族たちは自分たちの富を誇示すべく、ローマに対抗してコロセウムを建築したのです。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards397.html
『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
要塞としてすぐれた機能を発揮した円形闘技場 【遺跡名】エル・ジェムの円形闘技場 (一部抜粋しています)
アフリカ大陸の北端にあり、目の前は紺碧の地中海というチュニジアは、ヨーロッパ人たちが寒い冬の間を過ごすリゾート地として人気を集めている。地中海航行の要所の1つでもあるため、古くから交易基地としても栄え、いまもいたるところに栄華の残滓(ざんし)が漂っている。
歴史的にも、文化的にも貴重な価値をもつ遺跡も多く、なかでも、世界最大規模を誇り、最もよく保存されていることで知られるエル・ジェムの円形闘技場(コロセウム)は、構造、そして使用目的など多くの疑問を含んだ建造物として、いまも多くの考古学ファンを引きつけている。
「民衆にはパンとサーカスを与えよ」。これが、ローマ帝国の治世を象徴する言葉である。ローマの皇帝たちは、民衆とはパンを与える、つまり、仕事を与え、日々、食べるものを与えるだけでは満足しない。サーカス、つまり娯楽、エンターテインメントを与えることも必要だと考えていたのである。
当時、民衆に人気の高い”サーカス”は闘技で人と人、あるいは人と野獣が戦うのを目の前で見物することだった。かぎりなく残忍でむごたらしく死刑囚をいたぶり殺す”出しもの”は最高の人気を集めた。人はどうやら、他人の不幸を見物すると異常な興奮を覚える動物らしい。
エル・ジェムは、ローマ時代、ティスドルスと呼ばれる都市だった。ローマ帝国は、食料などの生活物質の多くを、エジプトや北アフリカの植民地から得ていたが、エル・ジェムはそれらの運搬の中継地点として、大いに富み栄えた。とくにオリーブ油の集散地として知られている。町にはたえず、オリーブ油の匂いがたちこめていたのだろう。オリーブ油の匂いは、ローマの風刺詩人ユヴェリナスが「ヘビさえ逃げ出すほど」と表したほどの悪臭だった。
そのため、この地に暮らす民衆には、ほかの都市以上の”サーカス”を与えねければならない。エル・ジェムの統治者はそう考え、繁栄が絶頂期に達した紀元200年ごろにようやく懸案だった円形闘技場の建設に着手している。
エル・ジェム市民の願いは、「どうせ建てるなら、規模はアフリカ一.建築美ではローマを凌ぐ円形闘技場を完成させたい」ということだった。こうした熱い思いを傾けて完成された円形闘技場は、長径162メートル、短径118目―散るの楕円形で、周囲を3層のアーケードで飾られている。
円形闘技場の周囲には小規模の劇場が2つ、さらにその後方を住宅群が取り囲むという都市計画になっている。住宅はカラフルなモザイクで飾られ、瀟洒(しょうしゃ)なインテリアを楽しんでいたことがうかがわれる。
チュニジア人はよほどモザイクを好んでいたらしく、劇場、役所、図書館など、現在まで残っている建物には、すべてモザイクがふんだんにあしらってある。エル・ジェムも例外でなく、モザイク観賞も遺跡めぐりの大きな楽しみの1つになっている。
話を円形闘技場に戻そう。エル・ジェムの円形闘技場は平地に建つという、きわめてユニークな構造をもっている。
普通、円形闘技場は傾斜地に使われ、土地の傾斜面を生かして階段状の観客席を設けている。だが、エル・ジェムの円形闘技場は平地に建てられているから、傾斜席を設けるには高度な建築技術を要求されたはずである。それにもかかわらず、エル・ジェムでは、実に3万5000人分の観客席をもつ闘技場を建てている。
この3万5000人という観客席数も、なんとも不思議なのである。当時のエル・ジェムの人口は1万人余りと考えられる。なぜ、市民の数より観客席数のほうが、はるかに多いのだろうか。
また、地下通路の存在も興味をそそる。石を積み重ねて造った競技場は想像を超える重量で、入り口や道路を地上に造ったのでは、その重量を支えきれないと考えたのだろう。だが、地下に造られた通路は必要以上に複雑に入り組んで、まりで迷路のようになっている。ここに逃げ込んだら、内部の構造を知っている者以外は、追いかけてくることは不可能だろう。
もうおわかりだろう。円形闘技場は、まるで難攻不落の要塞のような構造を併せもっていたのである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
平川陽一著 『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』という本を見ていたら、「要塞としてすぐれた機能を発揮した円形闘技場」というのがあった。
チュニジアといってもピンとこないが、今年の春 「ジャスミン革命」が起きた場所だ。古代カルタゴがあった場所である。
当時、カルタゴフェニキア人の通商国家であった。船団をあやつり地中海を自由に航行したフェニキア人は、古代において最も裕福な民族であった。
そのカルタゴローマ帝国との戦いに敗れ、ローマ帝国の属州となった。
チュニジア南東部のエル・ジェムは、かつてローマ帝国の属州として繁栄を誇りました。3世紀、その繁栄を示すべく、ローマのコロセウムに匹敵する巨大な円形闘技場が造られました」
古代ローマ最盛期の人口は約150万人で、古代ローマのコロセウムの観客席数は約4万5000人だった。
「エル・ジェムでは、実に3万5000人分の観客席をもつ闘技場を建てている。この3万5000人という観客席数も、なんとも不思議なのである。当時のエル・ジェムの人口は1万人余りと考えられる。なぜ、市民の数より観客席数のほうが、はるかに多いのだろうか」
コロセウムでは人と人、あるいは人と野獣が戦うのを目の前で見物することだった。
ネロとその後の時代、ローマのコロセウムではキリスト教徒たちが動物の皮を着せられ、犬に喰い裂かれて殺された。
チュニジアのコロセウムは要塞のような構造を持っていたのだという。
果たして、このチュニジアのコロセウムでは何が行われていたのだろうか。
エル・ジェムの円形闘技場(コロセウム)は1979年 文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録された。