じじぃの「科学・地球_455_量子的世界像・光電効果とは何ですか」

高校物理 光電効果 その1 原理

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光電効果


【高校物理】 光電効果とは?

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光電効果とは?
これまで 光 は 波 として扱ってきましたね。
しかし、19世紀の後半、光を波として考えると、つじつまのあわないような実験結果が得られました。 光電効果 です。
https://www.try-it.jp/chapters-8806/sections-8807/lessons-8808/

『量子的世界像 101の新知識』

ケネス・フォード/著、青木薫塩原通緒/訳 ブルーバックス 2014年発行

Ⅱ 原子核の奥へ より

光電効果とは何ですか

紫外線が金属の表面にあたると、その表面から電子が飛び出す。これは明らかに、紫外線に含まれるエネルギーの一部が電子に伝えられ、そのために電子が金属の束縛を解かれて飛び出せるようになったということだ。これを「光電効果」という。この効果そのものは、アインシュタインがこれについての論文を書いた1905年当時にはすでに知られていたが、その詳細については知られておらず、放出される電子の数とエネルギーが、入射する光の性質――とくに強度と振動数――とどう関わっているのかは、いまだ確定していなかった。アインシュタインは自分の考えた光量子仮説を用いて、それらの詳細を正確に予言し、その功績で――相対性理論ではなく――16年後にノーベル賞を受賞した。

古典物理学で考えれば、光の強度が高いほど電子のエネルギーが高くなり、また、どんな振動数の光でも、強度さえ十分なら電子を飛び出させるはずだと予想されるだろう。しかし実験をしてみると、このどちらの予想も正しくなかった。電子のネルギーは光の強度ではなく、光の振動数だけに依存しており、ある一定の振動数以下の光は、どんな強度であろうと電子をいっさい飛び出させなかったのである。
これらの光電効果に関する事実は、アインシュタインの光量子仮説で簡単に説明される。光の入射ビームを、一連の光子(ここでは現在での用語を用いる)の流れとしてイメージしてみよう。個々の光子のエネルギーは、プランクの式、E=hfによって求められる。この光子のエネルギーは、1個の電子にまるごと与えることはできるが、小さなかけらに分割されたり、粒子の減速とともに徐々に消失したりすることはない(光子は存在しているかぎり光速で移動するので、そもそも減速できない)。したがって電子は光子を吸収すると同時に、光子の全エネルギーを受け取る。電子はそのエネルギーの一部を使って金属表面の電場の障壁を乗り越える、そして残りは、脱出した電子の運動エネルギーとなる。
光の振動数がある一定の値を下回っていると、1個の電子に与えるエネルギーが、障壁を乗り越えるのに必要なエネルギーに達しないため、電子は束縛をふりきって逃げ出すことができない。その場合、光の強度がどれだけ高くても、個々の電子はどれも自由になるのに必要なエネルギーを得られないのだ。しかし光の振動数がその値を上回っていれば、光子は電子の脱出に必要なだけのエネルギーを与えることができる。どれだけの数の電子が放出されるかは光の強度によって決まるが、個々の電子のエネルギーは光の振動数のみによって決まるのである。
1916年、アメリカの物理学者ロバート・ミリカンが行なった測定により、光電効果に関するアインシュタインの予言はすべて申し分なく確認された。5年後、アインシュタインは「理論物理学への貢献、とくに光電効果の法則を発見した功績により」ノーベル賞を受賞した(ただし、この受賞理由には光の量子的性質についての言及がいっさい含まれていない)。その後の1923年、アインシュタインと並んでミリカンも、「電気素量、および光電効果についての研究により」ノーベル賞受賞者となった。

じじぃの「脳科学・色即是空・自分とは何かを考える!面白い雑学」

色即是空とは何か!/驚嘆すべき人間の本質/ 色とは何か、空とは何か、その関係を明らかにする

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仏教 「色即是空、空即是色」

仏教と脳科学の出合い。僧侶・伊藤東凌と考える、利他の心。【中野信子の脳探検】

2021年12月1日 Vogue Japan
仏教の教えには、疲弊しがちな現代の私たちが生きる上で多くのヒントが隠されている。
京都・両足院の副住職である伊藤東凌をゲストに、脳科学と仏教という異なる知見を掛け合わせ、利他的な心の持ち方や瞑想の効果について解く。
https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/brain-xpedition-nobuko-nakano-toryo-ito

『面白くて眠れなくなる脳科学

毛内拡/著 PHP研究所 2022年発行

PartⅢ 脳の可能性は無限大――「自分が自分だとわかる」不思議 より

意識とは何か?

今この本を読んでいるみなさんには意識があると思います。意識といっても、ただ寝ていない、覚醒しているという意味での意識という意味もあれば、私が私であるとわかる意識もあります。最近では、朝ご飯にしっかり栄養をとったり、社会人セミナーに出たり、将来を見据えて投資や資格の勉強をしたりすることは”意識が高い”などという使い方もされますが、これも要するに、なりたい自分というものを自分でしっかりわかっている、という意味だと考えられます。
このように、今ここにある私という感覚は、当然動物も持ち合わせいる意識であり、知覚と言い換えてもいいのかもしれません。
一方で、自分というものがわかるという意味での意識は、自己意識と呼ばれています。たとえば、ある種の生物は、鏡を見てそれを自分だと認識しているのではないかという報告がありますが、人間の赤ちゃんでも鏡を見てそれがそれが自分だと気づくまでには1歳半以降とそれなりに時間がかかります。
どうして私たちは、自分が自分であるとわかるのでしょうか。昨日の自分と今日の自分は本当に同じ自分なのでしょうか。たとえば、寝ている間に見た目がまったく同じだけど違う体にこっそり入れ替わっていたとしても、私たちは同じ自分だと思うのではないでしょうか。事実、私たちの体は、細胞レベル、物質レベルで日夜入れ替わっており、10年前の私と今の私では、物質的にはまったく別人といって差し支えないといえます。それでも私は、連続した自分というものを信じています。
これまで見てきたとおり、私たちの意識ある脳が入力を受ける際には、無意識の部分でほとんど処理の完了している状態のことが多くあります。しかし、私たちの意識ある脳は、あたかもそれを最初から自分で計画して実行したと解釈してしまう傾向にあります。さまざまな外部からの入力や疑問を、気がつけば次々と処理していってくれる存在があるのです。それを辻褄(つじつま)が合うように解釈するなら、そこには連続した「私」というものが存在するに違いないと思ってしまうのも無理はありません。
じつはこれこそが、自己意識の正体ではないかと考える説もあります。自己意識なるものは、要するに脳が見せる錯覚であるというものです。
私たちの脳が、連続した自己があるに違いない解釈してしまう理由の1つに、エピソード記憶が挙げられます。過去のエピソードを変わらず覚え続けているからこそ同じ自分であると考えられます。
ちなみに今のところ、エピソード記憶を持っている動物はほとんど報告されていないとされており、人間固有のものではないかと考えられています。

自分とは何かを考える

では、自分とは何かについて、ここからは少し哲学的な問いになってしまいますが、一緒に考えてみませんか。
はたして記憶を受け継いでいれば、それは私といえるのでしょうか。
たとえば、将来的には、記憶をそっくりコンピュータにアップロードして、別の体にダウンロードして生き続けるというSFのようなことができるようになるかもしれません。
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クローン技術でまったく見た目も遺伝子の同一の私が作られて、まったく同じ記憶を共有していたとしたら、それは私なのでしょうか。
あるいは、私を分子レベルまで分解してから転送し、転送先で再構成するというSFでよくあるテレポーションの前と後の私は、同じ私なのでしょうか。
いや、そこまでいくとやっぱりそれは違う私なんじゃないかと思えてきます。これは不可解です。まったく同じ体、まったく同じ記憶を持っていても、分岐したその瞬間から違う人になってしまうのはどうしてなのでしょうか。
それは、次の瞬間から起こる経験が違うからに他なりません。そうすると、自分というものは記憶に宿るのではなくて、脳が今この瞬間にしている経験そのものであるといえるのかもしれません。
脳科学という学問は、将来的には、”私とは何か”という疑問に答えることが可能になるのかもしれないとは想像できます。しかし、”なぜ私は私なのか?” ”なぜ私は私でなくてはならなかったのか”という疑問には、絶対に答えることはできないと私は思います。

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どうでもいい、じじぃの日記。
この本の最初の章では、

脳に届くのは信号だけ

みなさんが見ている色や聞いている音は、みなさんの脳が作り出した幻想で、実際は存在しないといったら、「そんなまさか」と思うのでしょうか。

実際、色は電磁波の波長の1つですし、音は空気の振動に過ぎません。それを私たちの目や耳が受け取って、脳に送ることで、脳がそれを解釈した結果、色や音が見えたり聞こえたりするのです。

そしてこの本の最終章では、

事実、私たちの体は、細胞レベル、物質レベルで日夜入れ替わっており、10年前の私と今の私では、物質的にはまったく別人といって差し支えないといえます。それでも私は、連続した自分というものを信じています。

人の体もそうだが、脳も日夜入れ替わっていて、昨日の私と今日の私とでは異なっているのだそうです。

脳科学という学問は、将来的には、”私とは何か”という疑問に答えることが可能になるのかもしれないとは想像できます。しかし、”なぜ私は私なのか?” ”なぜ私は私でなくてはならなかったのか”という疑問には、絶対に答えることはできないと私は思います。

脳は仏教の世界のようなものだそうです。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」