Relive the moment when PRC's legal seat was restored in the UN half a century ago
When the PRC won the ‘China’ seat at the UN (1971/10/25)
When the PRC won the ‘China’ seat at the UN
2020/10/21 The China Project
On October 25, 1971, the United Nations General Assembly voted on Resolution 2758.
It read, in part, that the United Nations “decides to restore all its rights to the People’s Republic of China and to recognize the representatives of its Government as the only legitimate representatives of China to the United Nations.” The same resolution would “expel forthwith” the representatives of the Republic of China: Taiwan.
https://thechinaproject.com/2020/10/21/when-the-prc-won-the-china-seat-at-the-un/
第4章 台湾と中華民国の異なる歴史 より
断絶しなかった日本との人脈・心情的関係
敵と味方に分かれて戦争を戦った日本と中華民国・国民党政府の関係は、日本の敗戦という形でリセットされることになった。このプロセスについては『日台関係史 1954-2020』(東京大学出版会)に収録されている川島真、清水麗論文にそって紹介したい。
その起点は、国民党政府が台湾に遷移してくる前から始まっている。
日本人が台湾を引き揚げたあと、600万人の台湾人に対して、大陸から外省人と呼ばれる100万人が支配層としてやってきた。彼らは日本統治時代を否定し、脱日本を掲げ、苛烈な白色テロを展開し、主に日本統治時代に高等教育を受けたエリートたちを殺戮していった。
だが同時に、蒋介石やその腹心の張群ら、支配層の外省人に日本留学経験のある知日派が多く、日本と中華民国の人脈や心情的関係によって必ずしも断絶したわけではなかった。
中華民国を焦らせた「台湾地位未定論」と「中華人民共和国の国連加盟」
日本はサンフランシスコ講和条約で晴れて独立国となり、朝鮮戦争特需も終息しはじめた1954年親米吉田内閣から鳩山内閣に代わり、中ソ共産圏との関係改善が急速に進む。それに伴い、中国との関係改善機運も盛り上がってきた。経済貿易関係の拡大を追求して政治外交関係を樹立するスタイルは、中華人民共和国(中共党政府)に対しても適用された。
チンコム(CHINCOM、対中国輸出統制委員会)の制限を受けながらも1952年に第1次民間貿易協定、53年に第2次民間貿易協定、そして鳩山内閣では55年に第3次民間貿易協定が締結されていく。
吉田内閣時代からすでに中共政府との貿易拡大方針は進められてきたが、鳩山が吉田と大きく違ったことは「蒋介石政権と毛沢東政権はともに立派な独立国である」と国会答弁で発言し、「2つの中国」があることを日本の首相として明言してしまったことだった。
日華平和条約によって中華民国を唯一の中国政府と承認しつつ、中国大陸を統治する中華人民共和国と経済を拡大していくのは、日本の「政経分離」方針を単純に表現しただけなのだが、中華民国としてはこうした日本の動き自体に神経を尖らせており、この鳩山の発言に当然、再三抗議した。
だが、さらに中華民国を焦らせたのは国連大使の加瀬俊一が1955年7月7日に「台湾地位未定論」と「中華人民共和国の国連加盟の可能性」について示唆したことだった。これが中華民国のさらなる抗議を呼んだ。
この日華緊張状態は、日本の国連加盟でいったん落ち着く。日本の国連加盟は1956年だが、このとき、国連安保理常任理事国の中華民国は日本加盟に賛成票を投じた。日本の国連加盟は1955年末の18ヵ国一括加盟のときソ連の拒否権に遭い、果たせなかった。このとき、中華民国憲法で自国の領土と規定していたモンゴルの加盟に対して中華民国が反対し、モンゴルも加盟できなかった。その後の蒋介石から重光葵外相への書簡で、日本の国連加盟の不成功に対して遺憾とし、その原因がソ連であるとしたうえで「2つの中国」論を非難する旨を表明した。
重光外相はこの書簡を蒋介石からの警告として重く受け止め、葉公超外相を通じて蒋介石にとりなしを求めると、蒋介石は「日本はロンドン交渉で何らかの協定に達せられることが有利ではないかと思う」としたうえで、ソ連が中華民国の反対を承知してモンゴル加盟を出した経緯について言及し、ソ連に日本加盟の支持を確約させられることを示唆したのだった。
中華民国の国連脱退が決定
1971年7月中旬、アルバニア、アルジェリア、ルーマニアなどの共同提案国23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府の追放」を趣旨とするアルバニア決議案を改めて提出した。
その後、中華人民共和国側は「中華民国」の国連追放ではなく、「蒋介石の代表政府」の国連追放と文面を改め、同年9月25日に第25回国連総会に提出した。米国は同時に、中華民国側部安保常任理事国のみ辞退し、国連議席を守る「二重代表制決議案」と中華民国の追放を重要事項に指定する、逆重要事項指定決議案を国連に提出した。米国としては国連加盟者の過半数賛成だけで中華人民共和国が国連加盟できるようにしたのだ。
総会では、中華民国支持派と反対派の間で激しい議論が起き、この議論の最中、中華民国代表の周書楷は「これ以上の審議に参加しない」と席を立ってしまった。これに中華民国支持国の中には、中華民国の真意を測りかねて覇権に回った国もあった。
10月25日、アルバニア決議案は賛成76反対35、棄権17、欠席3で可決され、二重代表制決議案の評決を待つまでもなく、中華民国の国連脱退が決定した。米国は最後の努力として、アルバニア案の後半部分の中華民国追放の部分を切り離して表決する動機を出したが、この動機自体が否定させた。
こうして中華民国は中国代表としての国連議席を失うだけでなく、分裂国家・中華民国としても、また台湾の代表としても議席を確保することなく、国連を去ったのだった。
この歴史的な事件を契機に、中華民国は次々と友好国を失っていき、中華人民共和国が名実ともに中国として国際社会に本格デビューすることになった。