じじぃの「人の死にざま_625_レーニン」

ウラジーミル・レーニン - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3/2161/
URSS - CCCP - Homenagem a Lenin 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BOmWcigLwdQ
Inno sovietico 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DWWGiXc2Qrg&feature=related
ウラジーミル・レーニン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ウラジーミル・イリイチレーニンは、ロシアの革命家、政治家。優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命の成功に主導的な役割を果たした。ソビエト連邦およびソ連共産党ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。マルクス主義共産主義)理論の研究と普及にも尽力し、後日、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられた。本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。
【生涯】
1870年、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとドイツ・スウェーデンユダヤ人(ロシア正教に改宗していた)のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクの間に生まれる。
高名な学者の子に相応しく兄弟は成績優秀だったが、とりわけレーニンは神童の誉れが高かった。9歳の時にシムビルスク古典中高等学校に進学すると、全学科全学年を通じて首席で通して卒業時に金メダルを授与されている。
1886年1月に敬愛する父イリヤ・ウリヤノフが脳出血で倒れて亡くなり、翌年にはペテルブルク大学理学部に在籍していた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑にされたのである。同じく疑いが掛けられた姉のアンナ・ウリヤノヴァは追放の処分を受けた。
1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた。ウリヤノフ兄弟は帝国政府から「テロリストの兄弟」として危険視され、常に秘密警察から監視される日々を送る事になった。
レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。
1898年7月、彼は社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚した。1899年4月に『ロシアにおける資本主義の発達』を出版。1900年に刑期が終了し7月にスイスへ亡命した。
1902年、レーニンは経済主義批判を主な目的として『何をなすべきか?』を書いた。労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョアイデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアート階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる
1917年2月にロシアで二月革命が勃発すると、レーニンはドイツ政府との協定によって封印列車でペトログラードに戻り『四月テーゼ』を公表した。臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートの権力と見なし、前者から後者への全面的な権力の移行を主張するものだった。
1917年11月7日、レーニンペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト軍事革命委員会の名で声明を発表し、「臨時政府は打倒された。臨時政府として人民委員会議が設立され、レーニンは初代人民委員会議議長に選ばれた。
戦争から手を引いたソヴィエト政権は首都をモスクワに遷都、ボリシェヴィキはその名をロシア共産党と改め、7月に開催した第5回全ロシア・ソヴィエト会議においてソヴィエト憲法を制定。左翼エスエル蜂起を受け共産党以外の政党を禁止した。
革命後の列強による干渉戦争や内戦により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた(戦時共産主義)。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策(ネップ)と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では資本主義も一歩前進だと主張した。
レーニンは暗殺の試み、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。
クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニン失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。

                                  • -

『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
ソビエト社会主義共和国連邦
ロシア革命後、ロシアの政治制度はソビエト(労働者協議会)に基盤を置くとされているが、現実には権力は、第1に共産党中央委員会にあり、ついで主要な政治問題を決定する共産党政治局と党内部の任用に責任を持つ書記局にあった。新政府はウクライナ人やタタール人のような非ロシア民族にも自由を約束した。しかしそれは、モスクワの絶対的な支配権のもとでの"自由"でしかなかった。
共産党の計画ではソ連の全資源の国有化が必要であった。しかし長い間の戦争による損失と崩壊のため、レーニンは新経済政策(ネップ)を作成しなければならなかった。土地の個人所有は、革命時代に前の地主から土地を手に入れた農民たちをなだめるために許可された。工業や商業の小規模事業も許された。
権力闘争
1920年に発作に倒れたレーニン1924年に死亡し、後継者争いが起こった。グルジア人の書記長スターリンが政敵トロツキージノビエフカーメネフを倒して、3年後に勝利を手にした。
スターリンの勝利は党書記極における任用のコントロールと穏健な経済政策やロシア人の国民的自負への訴えによって得られた。彼は一国家社会主義を主張したが、政敵のトロツキーらは全世界に革命が起こらなければ、ロシア革命の成果は維持できないとする世界革命論者だった。この世界革命思想の失敗が、スターリンの勝利を決定した。トロツキーは1929年に国外追放され、のちに暗殺された。

                                        • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
レーニン (1870-1924) 54歳で死亡。(一部抜粋しています)
1922年5月末、脳梗塞の発作で発入れたレーニンは、右手足が麻痺状態になり、一時モスクワ郊外の保養地ゴルキで静養し、小康を得たので、モスクワに戻って党務に励んだが、12月16日また発作を起し、以後病床から離れられなくなった。
スターリンは彼を外部から隔離した。
「ベッドに縛りつけられ、外界から隔離されたレーニンは、警戒心と怒りで燃えあがらんばかりであった。彼の懸念の源泉はスターリンであった。スターリンのふるまいは、レーニンの健康についての医師たちの報告が、思わしいものでなくなってゆくにつれて、ますます大胆なものになっていった」(『レフ・トロツキー回想録』)
スターリンレーニン夫人を怒鳴りつけて、レーニンを激怒させた。しかし半身不随の彼は、どうすることも出来なかった。
翌1923年3月6日に、レーニンは3度目の発作で言語障害を来(きた)した。ある日見舞いにいったスターリンは、帰ってから政治局員にいった。
「オヤジは永遠に苦痛から解放されるための毒薬をくれと私にいったよ」
そのとき胸の悪くなるような微笑が彼の顔に刻みこまれていた、と、ロツキーは記している。
その翌年、1924年1月21日の夕刻、夫人が電報のためにわずかの間病室を離れて、帰ってみると、「植物人間」レーニンは何度かの発作のために死んでいた。
しかし、トロツキーの記するとこによると、そのとき傍のテーブルに空(から)のアンプルが数個転がっており、レーニンは彼の悲劇的な要求(アンプルの供給)をかなえてくれる人物を、スターリンだけに見出したのである、ということになる。
さらにまた、レーニンが後事を託そうとしたトロツキーはそのとき旅行中であったが、スターリンにだまされて葬儀に参列することが出来かったが、「それはレーニンを解剖させないためであった」と、彼はいう。
レーニンの屍骸はミイラにされて、赤の広場にあるレーニン廟にいまもガラスの棺にいれられて横たわり、左右には2人の衛兵が着剣した銃で24時間立哨し、それに参拝するロシア人が毎日長い行列を作っている。
30年後に死んだスターリンは廟とクレムリンの間に埋葬された。

                                  • -

ウラジーミル・レーニン Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=78PuTYaUEYuKvQOr-MyPCQ&ved=0CCkQsAQ&biw=909&bih=555

じじぃの「もてない男・ニーチェ・永遠回帰?人生に生きる価値はない」

100分de名著 ニーチェ ツァラトゥストラ永遠回帰とは何か?』 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=anpCJEjvxYU
Oracion a la Vida (Nietzsche - Salome) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9vYRQOK7PvQ&feature=related
永劫回帰 ウィキペディアWikipedia)より
永劫回帰、または同じものの永劫回帰とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。
【概要】
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。
永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。

                                        • -

『人生に生きる価値はない』 中島義道/著 新潮社 2009年発行
ニーチェの季節 (一部抜粋しています)
ニーチェは、私にとってずっと違和感の塊であった。大学生になってから折りに触れて読み漁ったが、何も掴めない。いや、いつも言い表しがたい不快感がからだに沈着した。あえて表現してみれば、その大げさで深刻な人生や哲学への姿勢、その他人を見下した傲慢至酷態度、そして――これが決定的であるが――それでいて精緻とは程遠い大雑把な言語表現等に辟易していた。
自分の人生行路を大げさに意味づけるやり方にはうんざりした。ワグナーとの決別がどうしたというのだ! コジマや、ルー・ザロメに対する失恋がどうだというのだ! ざらにある話ではないか。若い頃の私は、彼のホットな人間関係への期待が馬鹿げて見えた。ずいぶんカッコ悪いと思ったのである。ニーチェの外見も、著書も、書簡も、そのナマの人生も、どこからどこまでカッコ悪い。もてない男の典型であり、それは、彼が他人に期待しすぎるからなのだ。
       ・
ヤスパースは医者らしくニーチェの病状を細かく分析しているが、慢性の胃炎、時に失神するほどの頭痛、次第に牛縄テレいく視力、それに完全な狂気への恐れ・・・・とすさまじい。
25歳でバーゼル大学の教授という幸運なスタートを切った人生であったが、40歳の頃はもうあらゆる面でガタが来ていた。すでに大学も辞めた。友人も失った。一人の女性もものにすることはできなかった。家庭を持つことなど夢のまた夢。それに、絶えざる肉体の苦痛。理解者もいなくなった。著作もちっとも売れない。まさに、この世の不幸をまとめて背負わされたような男である。
最近、ニーチェという男に興味を惹かれるのは、この凄まじい不幸のゆえかもしれない。こうした不幸を背負いながら、「永遠回帰」という思想に撃たれたのであり、「運命愛」に、「超人」に、「力の意志」にたどり着いたのだ。
哲学研究者の中には、こういう「私的事情」を切り離してその思想を語る者が多いが、それは間違いである。ニーチェの不幸と切り離して、これらの概念を理解することはできない。クロソウスキーは『ツァラトゥストラ』には、ルー・ザロメとの失恋の痛手が投影されていると言っているが、不幸を山のように背負った男にとって、それな単に1つのエピソードに過ぎないであろう。
私のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、ということ。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においてある用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。
だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否すること、それをニーチェは縁年と言い続けているだけである。
もし、目的があるなら、時間は無限なのだから、とっくの昔にそのすべては実現されているはずである。だが、どう見てもいかなる目的も実現されていないのだから、目的など初めからなかったのであり、いかなる目的もなくただ無限の時間が経過しただけなのである。
それをニーチェは「永遠回帰」という私的なイメージで語ったのだ。だから、このイメージに惹かれて様々な詮索するより、クロソウスキーの言うように、単なる「悪循環」でいいのである。
まさにニヒリズムであるが、こうした驚くべき現実を知った後、われわれは2通りの道を選択できる。1つは、その現実の残酷さ、虚しさを嘆く「消極的ニヒリズム」。そして、もう1つは、それをそのまま肯定する「積極的ニヒリズム」。
積極的ニヒリズムは尤もらしい名称であるが、じつはこれだけのこと。すべてはただ起こるべくして起こる。そこには、いかなる神の計らいも自然の摂理もない。
しかし、ニーチェはここで一見奇妙な思想を提示する。すべてはわれわれの知らないところで決定されているのだから、それに逆らわず流されるままに生きようという(仏教やショーペンハウエルのような)衰弱したニヒリズムではなく、まさに起こるべくして起こることを自ら「意志」せよと言うのである。
何の見返りも求めず、何の目的もなく、何の意味もなく、ただひたすら起こるべくして起こること、そのこと自体を意志すること、これが、「力の意志」なのである。それは言い換えれば、他の何かへと意味づけることなく、ただ意味がないことということの「意味」だけを目指すこと、目的がないということだけを生きる目的にすることである。それが、いかなることが生じようとも"Ja!"と肯定する「運命愛」にほかならず、それを文字通り実践して生きている人間が「超人」なのだ。
超人は没落しなければならない。世のあらゆる者、なかんずく善良な弱者がこぞって意味=目的を求めている傾きにあって、ただゼロであることを目指すだけで、その傾きの座標にある人からみれば「下って」いくこと、没落していくことになるのだから。
私にとって、今回のニーチェ受容に至るまでの準備期間は相当長かった。すべてが偶然であるとの実感は強かった。地震が起きて何万人が死ぬのも、帰宅したら妻子が殺されているのも、ただそうなったに過ぎない。いかなる背後の(スピリチュアルな)意味もないのである。

                                        • -

どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、中島義道著『人生に生きる価値はない』という本があった。
「人生に生きる価値はない」か。
本の冒頭にこんなことが書かれている。
「哲学的領野に踏み込めば、人生におけるあらゆることにはまったく価値がないのだが、そう『語る』ことにはわずかに価値があるかもしれない・・・・」
どんなこと書いているんだろ。
本の中をパラパラめくって見たら、ニーチェの「永遠回帰」が出てきた。
ニーチェの外見も、著書も、書簡も、そのナマの人生も、どこからどこまでカッコ悪い。もてない男の典型」
ニーチェも『ツァラトゥストラ』を書いていて、自分が後で、こんなにもケチョンケチョンにケナされるとは夢にも思わなかっただろうな。
宇宙は今から137億年前にビッグバンによって生まれ、今でも宇宙は膨張し続けているのだという。
ニーチェが死んだのは1900年だ。
ロシア生まれのガモフが最初にビッグバン説を発表したのは1940年代だ。
1800年代の中ごろ、ドイツのマイヤー、イギリスのジュールによって「エネルギー保存則」が発表された。
ニーチェが生きていた時代の宇宙観はどんなものだったのだろう。
宇宙には無限の広がりと無限の時間がある。これに対して、宇宙で起こることはすべて有限なものの組合せである。だから、宇宙のどこかで起こったことは、もう一度、そっくりそのまま繰り返されることになる。何千億年になろうと、必ずもう一度。そして、それはさらにもう一度繰り返され・・・・結局、無限回繰り返されるのである。
もしかして、今、宇宙は膨張し続けているとしても、いつかは収縮に向かうのかもしれない。
永遠回帰」は本当にあるのかもしれない。