じじぃの「もてない男・ニーチェ・永遠回帰?人生に生きる価値はない」

100分de名著 ニーチェ ツァラトゥストラ永遠回帰とは何か?』 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=anpCJEjvxYU
Oracion a la Vida (Nietzsche - Salome) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9vYRQOK7PvQ&feature=related
永劫回帰 ウィキペディアWikipedia)より
永劫回帰、または同じものの永劫回帰とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。
【概要】
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。
永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。

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『人生に生きる価値はない』 中島義道/著 新潮社 2009年発行
ニーチェの季節 (一部抜粋しています)
ニーチェは、私にとってずっと違和感の塊であった。大学生になってから折りに触れて読み漁ったが、何も掴めない。いや、いつも言い表しがたい不快感がからだに沈着した。あえて表現してみれば、その大げさで深刻な人生や哲学への姿勢、その他人を見下した傲慢至酷態度、そして――これが決定的であるが――それでいて精緻とは程遠い大雑把な言語表現等に辟易していた。
自分の人生行路を大げさに意味づけるやり方にはうんざりした。ワグナーとの決別がどうしたというのだ! コジマや、ルー・ザロメに対する失恋がどうだというのだ! ざらにある話ではないか。若い頃の私は、彼のホットな人間関係への期待が馬鹿げて見えた。ずいぶんカッコ悪いと思ったのである。ニーチェの外見も、著書も、書簡も、そのナマの人生も、どこからどこまでカッコ悪い。もてない男の典型であり、それは、彼が他人に期待しすぎるからなのだ。
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ヤスパースは医者らしくニーチェの病状を細かく分析しているが、慢性の胃炎、時に失神するほどの頭痛、次第に牛縄テレいく視力、それに完全な狂気への恐れ・・・・とすさまじい。
25歳でバーゼル大学の教授という幸運なスタートを切った人生であったが、40歳の頃はもうあらゆる面でガタが来ていた。すでに大学も辞めた。友人も失った。一人の女性もものにすることはできなかった。家庭を持つことなど夢のまた夢。それに、絶えざる肉体の苦痛。理解者もいなくなった。著作もちっとも売れない。まさに、この世の不幸をまとめて背負わされたような男である。
最近、ニーチェという男に興味を惹かれるのは、この凄まじい不幸のゆえかもしれない。こうした不幸を背負いながら、「永遠回帰」という思想に撃たれたのであり、「運命愛」に、「超人」に、「力の意志」にたどり着いたのだ。
哲学研究者の中には、こういう「私的事情」を切り離してその思想を語る者が多いが、それは間違いである。ニーチェの不幸と切り離して、これらの概念を理解することはできない。クロソウスキーは『ツァラトゥストラ』には、ルー・ザロメとの失恋の痛手が投影されていると言っているが、不幸を山のように背負った男にとって、それな単に1つのエピソードに過ぎないであろう。
私のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、ということ。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においてある用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。
だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否すること、それをニーチェは縁年と言い続けているだけである。
もし、目的があるなら、時間は無限なのだから、とっくの昔にそのすべては実現されているはずである。だが、どう見てもいかなる目的も実現されていないのだから、目的など初めからなかったのであり、いかなる目的もなくただ無限の時間が経過しただけなのである。
それをニーチェは「永遠回帰」という私的なイメージで語ったのだ。だから、このイメージに惹かれて様々な詮索するより、クロソウスキーの言うように、単なる「悪循環」でいいのである。
まさにニヒリズムであるが、こうした驚くべき現実を知った後、われわれは2通りの道を選択できる。1つは、その現実の残酷さ、虚しさを嘆く「消極的ニヒリズム」。そして、もう1つは、それをそのまま肯定する「積極的ニヒリズム」。
積極的ニヒリズムは尤もらしい名称であるが、じつはこれだけのこと。すべてはただ起こるべくして起こる。そこには、いかなる神の計らいも自然の摂理もない。
しかし、ニーチェはここで一見奇妙な思想を提示する。すべてはわれわれの知らないところで決定されているのだから、それに逆らわず流されるままに生きようという(仏教やショーペンハウエルのような)衰弱したニヒリズムではなく、まさに起こるべくして起こることを自ら「意志」せよと言うのである。
何の見返りも求めず、何の目的もなく、何の意味もなく、ただひたすら起こるべくして起こること、そのこと自体を意志すること、これが、「力の意志」なのである。それは言い換えれば、他の何かへと意味づけることなく、ただ意味がないことということの「意味」だけを目指すこと、目的がないということだけを生きる目的にすることである。それが、いかなることが生じようとも"Ja!"と肯定する「運命愛」にほかならず、それを文字通り実践して生きている人間が「超人」なのだ。
超人は没落しなければならない。世のあらゆる者、なかんずく善良な弱者がこぞって意味=目的を求めている傾きにあって、ただゼロであることを目指すだけで、その傾きの座標にある人からみれば「下って」いくこと、没落していくことになるのだから。
私にとって、今回のニーチェ受容に至るまでの準備期間は相当長かった。すべてが偶然であるとの実感は強かった。地震が起きて何万人が死ぬのも、帰宅したら妻子が殺されているのも、ただそうなったに過ぎない。いかなる背後の(スピリチュアルな)意味もないのである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、中島義道著『人生に生きる価値はない』という本があった。
「人生に生きる価値はない」か。
本の冒頭にこんなことが書かれている。
「哲学的領野に踏み込めば、人生におけるあらゆることにはまったく価値がないのだが、そう『語る』ことにはわずかに価値があるかもしれない・・・・」
どんなこと書いているんだろ。
本の中をパラパラめくって見たら、ニーチェの「永遠回帰」が出てきた。
ニーチェの外見も、著書も、書簡も、そのナマの人生も、どこからどこまでカッコ悪い。もてない男の典型」
ニーチェも『ツァラトゥストラ』を書いていて、自分が後で、こんなにもケチョンケチョンにケナされるとは夢にも思わなかっただろうな。
宇宙は今から137億年前にビッグバンによって生まれ、今でも宇宙は膨張し続けているのだという。
ニーチェが死んだのは1900年だ。
ロシア生まれのガモフが最初にビッグバン説を発表したのは1940年代だ。
1800年代の中ごろ、ドイツのマイヤー、イギリスのジュールによって「エネルギー保存則」が発表された。
ニーチェが生きていた時代の宇宙観はどんなものだったのだろう。
宇宙には無限の広がりと無限の時間がある。これに対して、宇宙で起こることはすべて有限なものの組合せである。だから、宇宙のどこかで起こったことは、もう一度、そっくりそのまま繰り返されることになる。何千億年になろうと、必ずもう一度。そして、それはさらにもう一度繰り返され・・・・結局、無限回繰り返されるのである。
もしかして、今、宇宙は膨張し続けているとしても、いつかは収縮に向かうのかもしれない。
永遠回帰」は本当にあるのかもしれない。