フランクリン・ルーズベルト - あのひと検索 SPYSEE
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太平洋戦争へ (1940-1941) 動画 YouTube
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ハルノート 太平洋戦争 動画 YouTube
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フランクリン・ルーズベルト フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の政治家。ローズベルト、ローズヴェルトとも表記される。民主党出身の第32代アメリカ大統領(1933年-1945年)。
ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一四選された大統領である。初代のワシントン大統領が三選を固辞した故事から大統領は二選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年と1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条)、正式に大統領は二選までと定められた。
【人物】
ルーズベルトはアメリカ史上唯一、4選された大統領で、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。
任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験し、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人だった。ルーズベルトのニューディール政策はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価されている。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。しかし、独裁者であるヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取ったことは、後に批判の対象となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。
【ニューディール政策】
世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・テネシー川流域開発公社 (TVA) などの大規模公共事業による失業者対策・社会保障の充実などの政策を行って克服を図ったが、失業率が依然高止まり状態を保つなどなかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。
しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)が対立し、議論の対象になっている。ただし前政権における清算主義金融政策からの脱却、管理通貨制度の確立(大統領令6102号により、市民に金貨、金塊の保有禁止を命令した)は、現在では大方の立場から有効な政策であったと認められている。
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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
4月12日−フランクリン・ルーズベルト (第32代アメリカ大統領)
アメリカの歴代大統領の中で1、2を争う人気を誇った人である。
その人気をつくったのも彼が大統領に就任した頃は大不況に国があえいでいた。ルーズベルトはこれを打開するためにニューディール政策を提唱した。
銀行を常時、開けさせ、政府が貯金保証をし、政府側から大々的に仕事を出し、街のあふれた失業者を救出した。これによってルーズベルトは熱烈な支持者を獲得したのだ。
また、ルーズベルトはラジオ放送で国民に向けて演説を行った。電波を巧みに使い、親睦感を深めていったその作戦たるや、時代のシッポをよくつかんでいて見事というしかない。
そのあたりが4度も大統領に選ばれた人気の源になっていたのではなかろうか。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ルーズベルト (1882-1945) 63歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1945年2月、大戦終結後の東西勢力の範囲を決めるヤルタ会談に臨んだフランクリン・ルーズベルトを見た会談レセプション委員長ノリス・ホートン大尉はのちに記す。
「私が強烈な印象を受けたのは、大統領の顔つきであった。やつれ果て、しわのよったその顔は、はげしい疲労を反映していた。皮膚は灰色で血の気がなかった」
ルーズベルトの動脈硬化はすすんでおり、頭脳の働きはにぶり、ために彼はこのヤルタ会談において外交的にスターリンにまんまとしてやられたといわれる。すなわち、東欧をソ連の鉄のカーテンとする端緒をひらき、またそれまでの太平洋戦争の経過から日本との戦闘はなお1年半つづき、米軍の犠牲は少なくとも100万を要すると判断して、ソ連軍の至急の参戦を請うという借りを作ったのである。
2ヵ月後の4月、ドイツは壊滅に瀕し、日本もまたB29の爆弾の雨下にあった。
12日、ルーズベルトはジョージア州ウォーム・スプリングにある「リトル・ホワイトハウス」と呼ばれるコテージで昼食後、従妹のミス・サックリーやミス・デラーノたちに囲まれて、革張りの肘掛椅子に坐って探偵小説を読んでいたが「きょうはあまり気分がよくない」と、いった。
その日彼は、ダーク・グレイのスーツ、チョッキ、赤いハーバード風の結びネクタイという服装だった。彼はチョッキも結びネクタイもきらいだったのだが、この日は画家のシャウマノフ夫人に肖像画をかいてもらうのでこの服装をしていたのだ。彼女は部屋の1隅で描きつづけていた。
午後1時にルーズベルトは時計を見て、「あと15分ある」とつぶやいた。
ミス・サックリーは編物をつづけ、ミス・デラーノが花瓶に水をさしている間に、彼は煙草に火をつけた。突然、左手でこめかみのあたりをおさえたが、その手がダランと垂れ下がった。
「何か落としましたか?」と、ミス・サックリーは尋ねた。
ルーズベルトは眼をとじたまま、小さな声で「ひどく頭が痛い」とつぶやき、がっくりとくずおれた。午後1時15分であった。
すぐに大統領専属軍医ブルーエン中佐が駈けつけ、脳溢血の診断を下した。ルーズベルトは新井呼吸をし、脈搏は104もあり、血圧も300を超えていた。
やがてアトランタに住む前アメリカ医師会長ジェームズ・ポーリン博士が呼ばれた。
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ポーリン博士はアドレナリンを注射した。心臓は2、3度鼓動を打ったが、すぐに永遠に停止した。午後3時35分であった。
ルーズベルトの死がベルリンに伝わったのは、ドイツでは4月13日の夜だった。宣伝省の防空壕にいたゲッペルスは、狂喜してヒトラーに電話した。「総統閣下、おめでとうございます! ルーズベルトが死にました。例の占星術には、4月に転機が訪れるとありましたが、今日は4月13日の金曜日です。運命の女神が総統の敵を打ちくだいたのです!」
しかし彼もヒトラーも、その4月の終りには死ぬことになる。