じじぃの「スポーツ国家アメリカ・第5章・女子テニス!アメリカの雑学」
Billie Jean King | Top-10 Points | US Open
ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング|平等のために闘い続けた伝説のテニスプレーヤー
2024/02/28 婦人画報
1960年から1983年まで、20年以上にわたって女子テニス界で活躍したビリー・ジーン・キング。通算優勝数129回、グランドスラム通算39勝という実績を誇り、世界ランク1位にも輝いた伝説のテニスプレーヤーです。
https://www.fujingaho.jp/culture/interview-celebrity/a46879533/life-is-party-billie-jean-king-24028/
『スポーツ国家アメリカ』
鈴木透/著 中央公論新社 2018年発行
自由と平等の理念を持つ、移民の国アメリカ。全米がスーパーボウルに熱狂するなど、スポーツが大きな存在感を持つ。野球をはじめとするアメリカ発祥の競技は、社会や文化とどう関係しているか。人種や性、地域社会の問題にアスリートたちはどう向き合ってきたか。大リーグの選手獲得方法やトランプ大統領とプロレスの関係は、現代アメリカの何を象徴しているのか。スポーツから見えてくる、超大国の成り立ちと現在。
第2部 スポーツの民主化と社会改革 第5章 女性解放とスポーツ より
タイトルⅨと大学スポーツの改革
このように、20世紀半ばに至るまで女性のスポーツへの進出の歩みは全体的には停滞していたが、その原因の打破につながる重要な動きも随所に現れていた。冷戦がすぐには収束する気配をみせていなかった当時、国家の体面を保ちメダル争いから脱落しないためには、女性選手の育成をいっそう強化する必要があるのは明らかだった。
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こうした状況に決 定的な影響を与えたのが、1972年の通称「改正教育法」だった。その第9条(タイトルⅨ)には、連邦政府の援助を受けている教育機関での性差別の禁止が盛り込まれていた。この法律は直接スポーツには言及していなかったが、この条文は、男子が入れる運動部と同じだけの選択肢が女子にも与えられなければならないと解釈されるようになっていく。これには、財源が減らされてしまうとして既存の男子競技から反対の声が上がるが、男女の機会均等を唱える女性解放運動からの積極的なロビー工作もあり、1970年代になると大学の女性スポーツをめぐる環境は大きく様変わりしたのであった。
女性スポーツの競技レベルをめぐる論争とキング夫人
こうして大学における女子の競技環境に改善が見られたことは、スポーツの民主化と競技水準の向上の両方にとって喜ばしいことであぅた。しかし、依然として世間には女子の競技を見下す態度がはびこっていた。女性選手がプロになれた数少ない競技の1つだったテニスでさえ、男女の懸賞金の格差は歴然としていた。当時テニスは女性スポーツの花形で、国際大会も多く、世間の注目度も高かったが、賞金額にはまだ10倍近い差があった。
こうした待遇に女子テニス選手が改善を求め始めると、これを男女の賃金格差の問題の一環とみなした女性解放運動の側も支援し、女子選手の待遇改善が図られ始めた。すると、主催者側や男子選手の間からは、女子は競技水準が低いから賞金額も低くて当然だという声が上がった。その急先鋒がボビー・リッグスだった。
かつてウィンブルドンも制した彼は、すでに引退していたが、女子のトップ選手に勝てると豪語した。そこで彼は、1973年の母の日に、マーガレット・コートという当時の女子のトップ選手と対戦した。リッグスは55歳、前年に出産した30歳のコートは、全豪オープンのシングルスで優勝し復活を果たしていた。結果は6-2、6-1でリッグスが勝った。
現役の女子のトップ選手が引退した男子に完敗したのは、女性スポーツにとっても、女性解放運動にとっても、衝撃的だった。リッグスは、女子の競技水準など所詮この程度だと、もう1人のトップ選手を徴発した。ビリー・ジーン・キング、通称キング夫人(1943~)である。彼女はすでに結婚していたが、子供は作らず、現役を続けていた。そうした彼女の生き方は、結婚を機に仕事を辞めて専業主婦となる従来の女性とは一線を画すもので、実力と知名度を兼ね備えた女性は新しい女性の象徴的存在になっていた。リッグスとの対戦には、女性スポーツと女性解放運動の両方の命運がかかっていた。
実際、同じ年の9月にテキサス州ヒューストンのドーム球場アストロドームで行われたこの試合は、女子の試合としては史上最高の3万人の観衆を集めた。結果は、6-4、6-3、6-3でキングが勝った。その後キングは、女性スポーツ協会の設立に尽力し、大学の女子選手に対する財政的支援の拡充や、女性の競技環境の改善に力を注いだ。