じじぃの「科学・地球_16_科学とはなにか・科学の事実と日常の事実」

Star Wars: The Rise of Skywalker | Final Trailer

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8Qn_spdM5Zg

著者インタビュー

東京大学大学院情報学環助教佐倉統 BOOKSCAN
――今、サイエンスコミュニケーターとして、重点をおいていることとは?
佐倉統
冒頭にもお話しましたが、今ぼくが関わっているプロジェクトが、放射線の低線量被爆の問題です。専門的知識や技能を適切に使えば、放射線の内部被爆もきちんと防ぐことができる。だからこそ社会の中に専門的な知識を上手く定着させて有効に活用することが大事だと思います。3・11の原発事故があった直後に、ある専門家の学会が色々と電話相談を受け付けた時に、「ウチの井戸水を飲んでも大丈夫か? 庭に洗濯物を干しても大丈夫か?」というような、日々の生活に関する相談がたくさんありました。それらの質問に対して、一般論をベースに「大丈夫です」と言っていた専門家は、すごく信頼を失いましたよね。一方で、「その地域の汚染状況は分からないから一緒に測りましょう」とか、「どうしたらみなさんの暮らしを守れるかを、一緒に考えましょう」と言っていた専門家もいました。彼らのように、今までの研究や蓄積だけに基づくのではなく、暮らしの中で必要な専門知識や情報を一緒に作り出していった人たちもいるわけです。
だから専門的な科学的知識を、社会、生活の中で使えるような形にするために、「変換アダプター」となるものが必要なのです。遺伝子組み換え食品でも予防ワクチン、あるいは環境問題や教育問題、民族問題でも、色々なところでそういった、科学的知識と日常生活との「変換アダプター」が必要とされているとぼくは思っています。
https://www.bookscan.co.jp/interviewarticle/418/all

『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』

佐倉統/著 ブルーバックス 2020年発行

第2章 科学の事実と日常の事実──科学技術の方法論 より

スター・ウォーズ》の戦闘シーンが無音だったら……?

映画《スター・ウォーズ》シリーズでは、宇宙での戦闘場面で派手な銃撃の音が出る。他のほとんどの映画でも同様だが、宇宙空間は真空だから、これは科学的には不正確だ。けれども、映画の演出上はそのほうが良い。これがまったく無音だったら、つまらないことこの上ない。
ちなみに、映画での描写が細部まで科学的に正確なのは《2001年宇宙の旅》であるとされている。しかし、あの映画では戦闘場面の迫力は描かれていないし、そもそも映画のテーマがまったく異なる。科学的に正確で宇宙空間を無音で描くことも、また別の種類の映画的演出のためであるともいえる。

科学の知識と日常の知識

科学的知識と日常的知識、それぞれの特徴を表にまとめておこう。同じ「知識」といっても、これだけ性質が違うと、もはや同じものとして扱うのはいかがなものかと思えてくる。

表 科学的知識と日常的知識の比較

       科学的知識     日常的知識

                                  • -

拠りどころ  証拠、事実     直感的、感覚的
手続き    仮説-演繹サイクル 日常的感覚
変化の速度  斬新的       跳躍的
重要なのは  過程、手続き    結果、帰結
文脈、場   自由        強く依存
目的     事実、真実     幸福、利便性
このどちらを優先するべきかは、場面に応じて変わってくる。ラーメン屋の美味しさ判定のような場合は日常性のみにもとづいていればよいだろうが、病気への対処や治療のような場合には重みづけが変わってくるだろう。専門家の医師による科学的な判断が、より重要になってくる。
だからといって、そういう場合にもすべて専門家の判断だけでよいのかといえばそうではなく、手術で根治するのがいいのか、薬の投与のみを続けて日常生活を変えないほうがいいのか、さらには症状や手術のリスクだけではなく、患者とその家族たちがどういう生活を送ることを望んでいるのか、それらによって大きく変わってくる。科学的な判断は、自分たちが満足のいく生活を送るための参考情報のひとつであるにすぎない。
だからこそ、科学の「外側」にいる者としては、科学とどのように接していけばいいのか、科学の成果をどのように使いこなしていけばいいのか、そこをじっくり考える必要があると思うのだ。

科学に生じつつある質的な変化

科学者のなかにもいろいろな人がいるし、場面によって異なる行動規範が求められる。

論文の事前査読だって、ひどいコメントが返ってくることもある一方で、目からウロコが落ちるような鋭いコメントが返ってきて、論文の質が格段に上がったことも少なくない。
当然、時代の違いもある。19世紀から20世紀にかけて形成され、確立された科学者共同体の規範は、CUDOS(知識の共有性、知識の普遍性、研究の無私性、秩序だった懐疑主義、Communiction, Universalism, Disinterestedness, Organized Skepticism)的なものを理想としていた。そしてまた、ある程度はこの理想に沿って動いていたとも考えられる。
しかし、後の章で見るように、国民国家の形成や産業の発展にともなって科学者・研究者の数がどんどん増えてくると、なかにはいろいろな考えの持ち主も出てくるし、この理想を追求するだけでは実際に動かないという場面にも遭遇する。CUDOS的な理想を掲げつつ、実際にはPLACE(独占所有、知識の局所性、権威主義的、政府や資本家からの依託、専門家としてふるまう、Proprietary, Local, Authoritarian, Commissioned Expert)的な処世術に沿って進んでいく、ということになる。
PLACE的な要素が目立ってきたということは、科学という営みの、古典的な理想像からの「ズレ」が大きくなってきたということでもある。現状は、それが単なる量的なズレにとどまるものではなく、科学や研究そのもののあり方を質的に変化させかねない段階にまできているといっていいかもしれない。
一方で、健全な科学的研究の営みがなくなってしまったわけではもちろんなく、ワクワクするような知的探求が日々がおこなわれていることもたしかだ。
どちらか片方だけのイメージを金科玉条のように掲げて、科学者とはこうであると決めつけてしまうのは、間違いのもとだ。科学と科学者を外側から見るときは、CUDOS的要素とPLACE的要素の両方を視野に入れながら接する必要があると思う。