じじぃの「歴史・思想_482_アメリカと銃・銃を愛した大統領・セオドア・ルーズベルト」

NFM Treasure Gun - Theodore Roosevelt's Adolph Double Rifle

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4ktqExmJhNg

THE 1895 .405 WINCHESTER

TRThursday: The Winchester - Theodore Roosevelt’s Rifle of Choice

Because of his extreme nearsightedness (meaning he could only see objects up close), finding an animal at a distance and setting his aim was a challenge.
Having a rifle which could be brought to the shoulder, aimed, fired, and a new round chambered and fired while still being shouldered was a great advantage. Not surprisingly, when Roosevelt choose a new Winchester model, the world took note, and the Winchester’s chambered in whatever caliber fancied the Colonel quickly became hot items.
https://wolfandiron.com/blogs/feedthewolf/trthursday-the-winchester-theodore-roosevelt-s-rifle-of-choice

アメリカと銃 銃と生きた4人のアメリカ人 大橋義輝

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今に続く「銃社会」はいかにしてつくられたのか?アメリカと銃の、想像を絶する深い関係に迫る。
全米一有名な「幽霊屋敷」の主サラ・ウィンチェスター、第26代大統領セオドア・ルーズベルトノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイ、そして西部劇の名優ジョン・ウェイン。銃にまつわる4人の生涯と、アメリカ社会がたどった「銃の歴史」が交錯するとき、この国の宿命が見えてくる―。

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アメリカと銃 銃と生きた4人のアメリカ人』

大橋義輝/著 共栄書房 2020年発行

第3章 銃を愛した大統領、セオドア・ルーズベルト より

2月14日の悲劇

セオドアの生涯を俯瞰してみると、どうしても触れなくてはならない出来事がある。この出来事こそセオドアを駆り立てたエネルギーの元になったのではないか、と思われて仕方がない。
それは、降ってわいた悲劇である。
病弱の幼年期を出発点としたセオドアは、その後ボクシングで体を鍛え、名門ハーバード大学に入学した。卒業直後はロースクールに入ったものの、まもなく退学して下院議員に立候補、最年少で当選した。23歳の時である。その翌年、イギリスとの海戦をテーマに書いた歴史書を刊行。これが高い評価を得た。まさに若き才能にあふれた期待の星であった。
加えて若い頃のセオドアは美男子で鳴らした。中年以降のセオドアはでっぷりした風貌でいかにもエネルギッシュな男というい明示が強く、とてもハンサムとは言い難いけれども、若い頃は違った。なにしろ「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラのモデルが母(マーサ)とあっては、そのDNAを受け継いだ青年が美男なのもうなずける。
当然、女性たちはセオドアをマークしたに違いないが、彼を射止めたのはアリス・ハザウェイ・リーという女性であった。
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1736年に設立されたニューヨークで一番大きな病院の一室で、セオドアは母マーサの枕元にいた。妻アリスの病状も気になっていたが、向こうの両親に任せ重篤な母側についていたのである。母は数日間食べるものも食べず体はげっそりと痩せ衰えていた。若い頃の人も振り向く美人の面影はなかった。
母に何としてもわが娘を抱かせてあげたい、それまで生きていて欲しい――セオドアは強く願った。けれどもやがて母の手から次第に体温が抜けていくのがわかる。意識が混濁し、孫が生まれて2日後の2月14日午前3時ごろ、母マーサは亡くなった。50歳であった。
一方、妻アリスの容態も悪化の一途をたどった。マーサが亡くなって11時間後の午後2時ごろ、セオドアと娘を残して旅立った。享年23。出産から2日後のことだった。
医師の診断によればマーサの死因は腸チフス。一方アリスは妊娠による腎臓病だった。
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まさに真っ黒な奈落の底に突然落とされた心境ではなかったか。
それでも暗いトンネルの中から一条の光を探し求めた。妻と母を失ったこのニューヨークからとりあえず離れよう。ニューヨークにいればいやが上にも母マーサ、妻アリスを思い出してしまう。悲しみを忘れるためには離れ田舎に引っ越すことだ。そうセオドアは考えた。

世界史を動かした? サラ邸訪問の真相

セオドアは銃による爽快感で鬱をふっ飛ばし、元気を取り戻した。狩猟の醍醐味を知ると同時に、銃の凄さをあらためて認識したに違いない。姿形だけでなく優れた性能をもつ銃の虜になったのだろう。銃身、トリガーのおさまり具合、ずっしりとして重厚な肌ざわり。セオドアはまるでペットを愛するが如く銃を愛した。
セオドアが大型獣をしとめてきた愛銃は、ウィンチェスターM1876センチネル・ライフルであった。セオドア自身「私が所有した銃のなかでベスト・ウェポン(最良の武器)だ」と言っている。
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セオドアがサラ邸を訪問したのは1903年春のこと。当時の世界情勢」の焦点は、アジア大陸の権益をめぐる、列強の綱引き状態であった。大国ロシアをはじめイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、日本そしてアメリカがしのぎを削っていた。こんな中、ロシアと日本は朝鮮半島の権益をめぐって激しく対峙、きな臭い状況が続いていたのである。
セオドアがサラ邸を訪問したのは大統領3年目、ほぼ同時期、日本では最重要会議が行なわれていた。1903年4月21日、元総理大臣、山形有朋の京都の別荘に歴代総理が集結していた。出席者は4人、初代総理大臣・伊藤博文、第10代総理大臣・山県有朋、現役総理大臣・桂太郎、それに外務大臣小村寿太郎であった。後に桂太郎は「この会議で日露開戦の覚悟が決まった」と述べている。つまり日露開戦を決定付けた重要な会議であった。

ノーベル平和賞に輝く

おさらいすると、セオドアのサラ邸訪問は3つの要素が重なった結果といえる。
まずは、愛用の銃とのよしみから、ウィンチェスター家御曹司の未亡人サラへの好奇心が募ったこと。次に、セオドア自身のプライベートの不幸がサラの不幸と重なり、同質の悲劇を味わった仲間意識。そして、重大な局面に隠し、実は繊細な心を持つセオドアが、スピリチュアリストであるサラの言葉によって一歩前に出る力が欲しかったこと。これらがないまぜとなってサラとの面会を求めた、と私は推測している。
だが、サラとの面会は叶わなかった。
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スペイン戦争で功名をあげ、フィリピンを傘下におさめ、中南米においてもパワーを発揮してパナマ運河理研を有利にしたセオドアだ。「棍棒をもって穏やかに交渉せよ」の政治姿勢を発揮し、銃によって西に侵攻したアメリカの歴史を踏まえて、西部開拓ならぬアジア開拓を目指した、かもしれない。もっとも、サラと面会したとしてもそういったリスクを追わず、日本を支えながらロシアをけん制し、漁夫の利を狙ったかもしれないが。
サラ邸訪問から数ヵ月後、1903年8月に日露交渉が行なわれた。けれど両国は言い分を主張し歩み寄りは見られなかった。その後も裏に表に交渉を重ねたものの決裂。このため翌1904年2月8日、ついに日露戦争が勃発した。
結果論から言えば、この戦いで両国はともに疲弊した。ロシアの戦死戦傷者約3万4000~5万3000人。一方、日本は戦死戦傷者約5万5000人、費やした戦費は当時の金額で20億円以上。国家予算の8倍であったという。ロシアも国内でロシア革命(第1革命)が起こり、日本との戦争に注力できる状況ではなくなっていく。
得をしたのはやはり、漁夫の利を得たアメリカだったのではないか。しかも戦争を終結(1905年9月5日)させた立役者として、セオドアはアメリカ初のノーベル平和賞に輝いたのだった。血みどろの日露戦争終結させ、世界平和に貢献したとの評価を得たのである。