じじぃの「歴史・思想_465_サピエンスの未来・進化論とキリスト教」

Teilhard de Chardin's Cosmic Christology and Christian Cosmology

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=usCYQhTmGoA

God, spirit, matter, Christ, creation and redemption

God can emerge in new ways through Teilhard's 'troubled worship'

Feb 11, 2020 Global Sisters Report
Pierre Teilhard de Chardin was a scientist and a careful observer of nature. His ideas on God, spirit, matter, Christ, creation and redemption were not born in a chapel during Holy Hour or through committee meetings of highbrow specialists, arguing over whether or not the use of the word infallible should be applied to all teachings of the church. Most of his writings are based on careful and detailed studies of physics and biology. It is not surprising that, as a scientist and a Jesuit, Teilhard would be fascinated by matter itself.
https://www.globalsistersreport.org/news/god-can-emerge-new-ways-through-teilhards-troubled-worship

無原罪の御宿り

ウィキペディアWikipedia) より
無原罪の御宿り(ラテン語: Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae)とは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義である。無原罪懐胎とも言う。
1854年に正式に信仰箇条として宣言決定された。
カトリック教会における教義】
無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものである。
前提として、カトリック教会において原罪の本質は、人がその誕生において超自然の神の恵みがないことにあるとされる。
キリストは原罪を取り除く者であり、マリアはキリストの救いにもっとも完全な形で与った者である。ルカによる福音書1:28にある「おめでとう、恵まれたかた」と天使から聖母マリアが言われたことには、原罪とは逆の状態、すなわち神がともにおられるという恵みが特別にマリアに与えられていることが示されているのであり、マリアが存在の初めから神と一致していることが示されているとされる。

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『サピエンスの未来 伝説の東大講義』

立花隆/著 講談社現代新書 2021年発行

はじめに より

この本で言わんとしていることを一言で要約するなら、「すべてを進化の相の下に見よ」ということである。「進化の相の下に見る」とはどういうことかについては、本文で詳しく説明しているが、最初に簡単に解説を付け加えておこう。
世界のすべては進化の過程にある。
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我々はいま確かに進化の産物としてここにいる。そして、我々の未来も進化論的に展開していくのである。
我々がどこから来てどこに行こうとしているのかは、進化論的にしか語ることができない。もちろん、それが具体的にどのようなものになろうとしているのかなどといったことは、まだ語るべくもないが、どのような語りがありうるのかといったら、進化論的に語るしかない。
そして、人類の進化論的未来を語るなら、たかだか数年で世代交代を繰り返している産業社会の企業の未来や商品の未来などとちがって、少なくとも数万年の未来を視野において語らなければならない。人類の歴史を過去にたどるとき、ホモ属という属のレベルの歴史をたどるなら、100万年以上過去にさかのばらねばならない。
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本書では、ジュリアン・ハックスレーやテイヤール・ド・シャルダンといったユニークな思想家の発想を手がかりとして、そこを考えてみたいと思っている。

第8章 進化論とキリスト教の「調和」 より

原罪は遺伝する?

神さまが神の子を生ませるために選んだ女性に罪があってはならないから、マリアも生まれたときから無原罪であったはずだという信仰が生まれて、聖母マリアの「無罪懐胎(Immaculate Conception)」説が生まれます。美術が好きな人は、これが西洋絵画の主題によくなっていることを知っているはずです。これはマリアが生まれる前のことなんでが、死んだあとについても、聖母マリアが人間として死んで、その死体が腐敗したなどということは考えがたいことだから、マリアが死ぬまえに、キリストは彼女を肉体を持ったまま昇天させたにちがいないということで、「聖母被昇天(Assumption)」の伝説が生まれます。
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どうしたって、聖書の記述をそのまま丸ごと信じようとすると、いろんな矛盾ができてしまってどうしようもなくなるんです。特に、神話の部分はそうです。中でも創世記のはじめの部分、たった6日間での天地創造とか、アダムとイブ、ノアの箱舟なんかのくだりですね。

科学と信仰の不一致は克服できるか

そこで、20世紀に入ると、カトリック教会の内部から、そういう神話的部分の親和性を合理化するような近代主義的解釈を許すべきではないかという声があがるようになります。創世記などは現実的な意味の歴史書ではなく、歴史以外のことを表現するために、一見歴史書に見せかけた本を書いたのだといった主張ですね。いろんな主張がありました。そういう主張をまとめて、「近代主義の誤謬」として全否定した「ラメンタビリ」(1907)、あるいは「パッシェンディ」(1907)という有名な回勅があり、そこに誤謬としてならべられた近代主義の説を読んでみると、我々にはそっちのほうがずっと合理的でもっともらしい説のように思えるのですが、法王庁は、そういうものを片隅かた否定していったのです。
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「キリストが罪のあがないのために死んだというのは福音の教えではなく、パウロの教えである」
「教会の有機的構造は不変のものではなく、キリスト教社会は人間社会と同じように絶えず進展するものである」
「真理は変わらないものではなく、人間と同じように人間とともに、人間の中において、人間を通じて発展する」
「人間の理性は種々の『現象』、すなわち眼に見えるままのものによって完全にとり囲まれていて、それ以上のことを知る能力も権利も持たない。したがって、人間理性は神に達することもない。神の存在を眼に見えるもの(被造物)を通して認識することさえもできない」
ぼくなんか、こっちのほうがなるほどと思えるんですが、法王庁は、こういう思想は伝統的教義を破壊する危険思想として片端から否認していきました。そういう流れの一環として、法王庁によるテイヤール・ド・シャルダンの思想の否認も行われたわけです。
一方テイヤール・ド・シャルダンは古生物学者として、アダムとイブの神話など信ずるわけにはいきませんでした。そして、それを信じないと、原罪の問題をめぐって法王庁と衝突せざるをえないということもわかっていました。同時に衝突するとしても、結局は科学が勝利をおさめることになるだろうと確信していました。
1930年に書いた「進化論をどう考えるべきか」という文章の中で、彼はこう書いています。
「近代科学の考え方の中に、カトリックの思想をまだ(かなり強く)悩ますようなものがあるとしても、ヒト(精神的存在)が動物から形成されたという考えは、決してこれには当たらない。それは、正しいと思われる進化論と厳密な人類一元論、すなわち我々がすべてただ一組の男女から由来したという考え、を合理的に調和させることのむずかしさである。一方において教会は、哲学的でも聖書注釈学的でもなく本質的に神学的な(堕罪と贖罪に関する聖パウロ的な考えの)理由によって、アダムとイブの歴史的な事実性に固執している。他方において科学は、確率と比較解剖学の理由により、人類という巨大な建物に、たった2人の個体が土台となっているなどとは、(最も控えめに言っても)夢にも考えない。
現在、進化論問題にかんして、科学と信仰との間に一時的な不一致がみられるのは、この点をめぐってである」(『過去のヴィジョン』山口敏訳<著作集第6巻>)

進化論と最も調和するのはキリスト教

法王の演説に話を戻すと、進化論を容認するにあたって、最重要の一点だけはゆるがせにできないといいます。それは、ヒトの霊魂(スピリチュアル・ソウル)だけは神が直接に作ったということです。霊魂以外の肉体が、進化によって生命物質の発達によって自然にできたといっても、それは重要なことではないといいます。
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しかし実はテイヤール・ド・シャルダンはその程度のことは70年以上も前に見通していたのです。1921年に書いた「進化論問題の現状」(『過去のヴィジョン』山口敏訳<著作集第6巻>においてこういっています。
「もし進化論が理性や信仰にとって危険だというならば、それは創造主の行為を無用のものにしてしまうとか、生命の発展を自然に内在する作用だけに帰する(中略)ということを証明する、などの意図を持っているはずである。事実、あまりにも多くの進化主義者たちが、生命の科学的な説明を世界の形而上学的解決ととりちがえるという重大なあやまちを犯してきた。生きた細胞の物理化学的な仕組みを解き明かすことで、霊魂を抹殺したと思い込んでいる唯物主義の生物学者と同じように、動物学の中にも、神の作品の一般構造を少しばかりのぞき見できたことで、第一原因はもはや無用のものになったなどと思いこんだものがあった。こういうまちがった問題の設定は、この際はっきりと片付けておくべきである。厳密な意味での科学的進化論は、神を証明するものでもなければ反証するものでもない。単に実在する脈絡の事実を確認するにすぎない。進化論が我々に示してくれるのは、生命の最終動機ではなく、生命の解剖学である。

進化論は、<何かが組織化され、そして何かが成長した>ことを立証する。しかし進化論にはその成長の究極の条件を解き明かす力はない。進化の運動がそれ自体で理解できるものなのか、それとも主動力たる神による前進的で連続的な創造を必要とするものなのか、それを決定するのは形而上学の問題である。

進化論は別に何らかの哲学を強制するものではない。この点は何度もくりかえし述べておく必要がある。しかしそのことは、進化論が何も暗示しないということでは絶対にない。奇妙なことであるが、進化論と最もよく調和する思想体系は、実は進化論の被害をいちばん被ったと信じてきた思想体系にほかならないらしいのである。たとえばキリスト教であるが」
つまり進化論と最もよく調和する体系がそのことを自分で発見するようになるまで、実に70年もかかったということになるわけです。