じじぃの「歴史・思想_418_社会はどう進化するのか・協調的なグループ」

Theory of Evolution: How did Darwin come up with it? - BBC News

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JOk_0mUT_JU

この丘の斜面はどれくらい急か?

Ground 40: The North - Design by Detail: Darwin’s Hill

OALA - The Ontario Association of Landscape Architects
Darwin’s Hill under construction at One Spadina Crescent, Toronto, on the east side of the newly relocated and renovated John H. Daniels Faculty of Architecture, Landscape, and Design, University of Toronto. IMAGE/ Courtesy of Public Work
https://www.oala.ca/ground_articles/design-by-detail-3/

『社会はどう進化するのか――進化生物学が拓く新しい世界観』

デイヴィッド・スローン・ウィルソン/著、高橋洋/訳 亜紀書房 2020年発行

グループから個人へ より

個人とは何か? 私たちははっきりした身体の境界を持ち、各人を対象にあらゆる種類の診断や測定を行なうことができるという事実は、私たちを誤った答えに導きやすい。第4章(「善の問題」)で取り上げたニワトリを思い出されたい。メンドリは檻のなかで飼われ、産卵率をもとに選択された。ニワトリのお尻から出てくる卵を数え、それをその個体の特徴とみなすのは簡単だ。しかし各グループのなかでもっとも産卵率の高いメンドリを選択して繁殖に回すと、卵の生産性は上がるのではなく下がり、5世代目には、サイコパスの集団になってしまった。
そのような倒錯した結果になったのは、第4章で見たように、産卵率の高いメンドリのほとんどが、他のメンドリを攻撃することで好成績を残していたからである。個体を対象に満足できるという理由から個体の特徴であるかのように見えたものが、実際には社会的相互作用の産物だったということだ。それと並行して行われた実験では、1つのグループに属するすべてのメンドリが、グループ全体の産卵率をもとに選択された。この実験は、一群の満ち足りたメンドリを生み、5世代が経過するうちに産卵率が上昇した。というのもグループ選択は、攻撃的ではなく協調的な社会的相互作用を選好するからだ。
かくしてニワトリ実験は、善の問題のたとえ話になるばかりでなく、本章で取り上げる、社会的相互作用の産物としての個人という概念のたとえ話にもなる。ニワトリ同様、身長、個性、身体や心の健康など、個人を対象に簡単に測定できる事象は、個人の特徴ではなく、私たちが生まれる前まで、というより進化の全過程を考慮に入れれば人類の遠い祖先が誕生した頃までさかのぼる社会的プロセスの結果なのである。各人は社会的プロセスへの積極的な参加者であり、それゆえ行為主体としての個人にはさまざまな尺度が存在する。誰もが「独立独行の」存在であるとする考えはフィクションにすぎない。
本章では、系統的な見方をとることが、個人の機能不全として顕現する、現代社会の問題の解決に役立つことを示していく。その際、まず自分の専門分野で成功し、しかるのちに進化論の世界観を採用することに付加価値を見出した人々を紹介する。

なぜ私たちは手を握るのか

名高いバージニア大学の心理学部の臨床心理学者ジム・コーンを紹介しよう。臨床心理学者は、社会の各方面に属する人々の心の健康を改善する仕事を遂行するために訓練されているが、それとともに基礎科学の調査に従事している者も多い。ジムは臨床医であると同時に、最先端を行く神経科学者でもある。数年前に、「あなたはダーウィンの進化論を受け入れていますか?」と尋ねたら、彼は「あたり前だ!」と答えただろう。しかしある患者の臨床を担当していたとき、それまで教わってきた見方とは大きく異なる進化論の観点から、人間の脳の本質をとらえ直さなければならないと考えるようになった。
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人類の進化の歴史を通じてつねにそこにいたのは単なる他者ではなく、結束力の強いグループに属する協調的な他者であった。誤解のないようにつけ加えておくと、闘争は人類の歴史を通じてつねに生じてきたが、その多くはグループ間の闘争であった。つまり個人は、自分が属するグループの他のメンバーと協力し合ってきたということだ。ジムの核心的な洞察は、「人類の祖先は協調的な他者に囲まれて暮らしていたと考えられ、それが脳を含めた人間の身体の設計やメカニズムに反映されているのだ」というものである。手を握ることは正常な状態であり、適応によって形作られた脳や身体の設計の設計に即して言えば、ストレスに満ちた状況に1人で直面するのは異常な事態だとジムの同僚が言ったときに意味していたのは、まさにその点であった。
ジムの社会基準値モデルによれば、人間の脳や身体は、交換条件に関する決定を下すとき、自動的に社会的な資源や個人的な資源を計算に入れる。その働きを理解するために、広大な丘のふもとに立っているところを想像してみよう。丘をのぼる坂は、どれくらい急なのか? この丘をのぼりたいという意欲がどれくらい強いのか? これら2つの問いは、互いにまったく異なるように思えるかもしれないが、ジムの学部の同僚デニス・プロフィットが行なった実験が示すところでは、それらは私たちの心のなかで絡み合っている。プロフィットは、重いバックパックを背負わせる(背負わせない)、事前に断食させる(させない)、事前に運動をさせる(させない)など、さまざまな条件のもとに置いた被験者に丘の傾斜を見積もらせた。重いバックパックを背負っているときや、断食や運動をしたあとでは、丘にのぼる意欲がそがれることは容易に推察できるが、意外な結果は、それらの条件のもとに置かれた被験者が丘の傾斜を過剰に見積もったことである。つまり丘をのぼろうとする意欲が、丘の知覚に影響を及ぼしたのだ。
その種の事例は、脳が交換条件を評価するとき、個人的な資源を計算に入れることを示している。ところでデニスは、丘の傾斜を見積もらせるにあたって、被験者が友人の隣に立っている場合と、1人でいる場合を比較する実験も行なっている。その結果、被験者は友人がそばにいるだけで、丘の傾斜をよりなだらかなものとして見積もった。脳は、個人的な資源(バックパックを背負っている、事前に断食をした、事前に運動をしたなど)を計算に入れる場合と同様、無意識のうちに楽々と社会的な資源(友人の存在)を計算にいれたのである。
小グループは人間の社会組織の基本単位をなし、個人の健康や、より大きな規模での活動の効率化に必要とされることを、私は第6章(「グループが繁栄するための条件」)で論じた。ジムの社会基準値モデルは、協調的な他者に囲まれている必要性が、私たちの脳と身体に深く刻み込まれていることを明らかにする。

つまり私たちの脳と身体は、協調的な他者とともに暮らすべく設定されており、1人で世界に直面しなければならなくなると警戒状態に置かれるのだ。だから慢性的な孤独は、私たちの心と身体の健康を蝕む。この見方は、現代の経済理論や他の形態の個人主義の基盤をなす、個人を人間社会の基本構成要素と見なす考えとは根本的に異なる。