じじぃの「歴史・思想_312_ユダヤ人の歴史・ヨセフとモーセ」

ヨセフ コトバンクより

ヤコブの第 11子。母はラケルヤコブに最も愛されたが,兄弟のねたみを買ってエジプトへ向う隊商に売渡された。

モーセ コトバンクより

エジプトでレビ族の家系に生れ,エジプト圧政下のヘブライ人を率いて脱出に成功した指導者。

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ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

最初の政治家ヨセフ より

こうしてイスラエル人のエジプトでの滞在とそこからの脱出、そしてその後に続く荒野での彷徨(ほうこう)に参加したのは、イスラエル民族の一部にすぎなかった。それでもなおこの一連の経験は、彼らの宗教・倫理に関する文化の発展にとって決定的な重要性をもっていた。それは彼らの歴史上中心的な位置を占める事件であり、ユダヤ人自身常にそのように認識してきた。なぜなら彼らが礼拝する神の性格が、この事件を通じ超越的な輝きをもって初めて明らかになったからである。神は地上最強の帝国から彼らを解放し、豊饒(ほうじょう)な土地自身のものとするために与えた。ただし見返りとして様々な厳しい要求を提出し、それを守ることを要求したのである。将来の栄光を約束されていたとはいえ、エジプトへ移住する前のイスラエル人は、他の民族とほとんど変わらない小集団にすぎなかった。しかしパレスチナへ帰ってきたときには、はっきりとした目的と、計画と、そして全世界に伝えるべき思想を抱いた人々に変身していた。
この期間の始まりと終わりに、ユダヤ人の歴史を通じて最も魅惑的な2人の人物が登場する。すなわちヨセフとモーセである。力と業績によってユダヤ史を繰り返し彩った人びとの原形ともいうべき人物であった。2人とも長子ではなかった。その点で聖書の他の物語に登場する。アベル、イサク、ヤコブダビデ、そしてソロモンと同様である。聖書には不思議と年少の息子が活躍するのを称賛する傾向がある。多くの指導者が、様々な出目にもかかわらず、神から特別の恩寵を受け自分自身の努力によって指導的地位に達した。聖書は、無力であることに特別の価値を見いだす。権力を行使する立場に立つことがまれであり、むしろ時の権力に痛めつけられる場合の多かった民族にふさわしい。一方で、聖書は努力して目的を達することにも価値を置く。特に初めは弱く身分が低かった者があげる業績そのものを、徳の徴(しるし)とみなすのである。ヨセフもモーセも、生まれたときには何の特権も有していなかった。幼少期あるいは青年期に危うい目にあいながら、かろうじて生き延びる。しかし両者とも、自分自身の努力によって偉大なる境地をめざすのに必要な資質を、神から授かっていたのである。
ただし、2人の共通点はそこまでである。ヨセフは異民族の統治者につくす有能な大臣であり政治家であった。以後3000年にわたり多くのユダヤ人が繰り返し果たす役割を、先取りしていた。ヨセフは賢く、すばしっこく、感受性と想像力に富んでいた。夢を追う者でありながら、単なる夢想家は留まらなかった。複雑な現象を解釈し、予見し、予測を立て、計画を立案し実行する創造的能力を有した。物静かで、経済と財政にかかわるすべてのことがらをこなし、様々な神秘的現象に精通していた。また、いかに時の権力者に仕えるか、また、自分の民のためにどうやって権力者を利用するかを、よく心得ていた。ファラオはヨセフにこう言っている。「なんじのようにさとく賢い者はいない」(創世記41章39節)。
ヨセフに関する物語は創世記のかなりの部分を占めている。

精神的全体主義モーセ より

出エジプトという圧倒的な出来事は、イスラエル人による反乱を率いた一人の傑出した人物、すなわちモーセの物語でもあった。モーセユダヤ史の中核をなす人物である。すべてが彼を中心に展開すると言ってさしつかえない。アブラハムが民族の始祖であるとするならば、モーセは想像力そのもの、民族に形を与えた者と呼んでよいだろう。彼のもとで、彼を通して、イスラエル人は1つの固有な民族を形成し、将来、1つの国民となることを約束されたのである。
ヨセフと同様モーセユダヤ人の原型ともいうべき人物であるが、性格は異なるし、ずっと近寄りがたい雰囲気をもっていた。預言者であり指導者、いざという時には果敢な行動力を発揮し、まるで電流のように強烈な存在感のある男。激しい怒りを抱くことができ、容赦のない決意を内に秘め、それでいて深い精神性をもち、人里離れた場所で一人きりになって神と交流するのを好み、神秘的な幻と神の顕現(けんげん)と黙示を見る。しかし世を避ける隠者というわけではなく、強い精神力をもって現世と積極的にかかわり、不正を何より憎み、理想世界を実現しようとして熱烈に活動する。神と人との仲介役を果たすだけでなく、過激な理想主義を具体性のある政治課題に変えて取り組み、気高い理念を日常生活の細々した問題の水準にまで降ろすことができる。そして何よりモーセは立法者であり、裁判官であり、公的私的な活動のすべての側面を道徳的規律のもとにおくために強力な枠組みを用意した、いわば精神的全体主義者であった。
もーせの業績を記した聖書の各書、特に出エジプト記申命記民数記は、神の栄光と思想を人々の理性と感情の中へ注ぎ込むパイプとしてこの人物を描いている。しかし同時にわれわれは、モーセ自身がきわめて創造性に富む人物であったことを忘れてはならない。
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しかし、モーセがどんな偉大で例外的人物であったとしても、決して超人ではなかったことに注意する必要がある。ユダヤ著作家と賢者たちは、民族の創始者たちを神格化するという古代世界で広く見られた傾向に逆らい、モーセの人間的な欠点と弱さをしばしばあえて強調した。けれどもその必要はなかった。記録が残っているからである。モーセはほとんど卑怯と映るほど、ためらいがちであいまいであった。判断を誤り、頑迷で、愚かで、苛立ちやすかった。しかも驚くことに自分の欠点を常に意識し悩んでいた。モーセの性格に関する記述ほど、聖書の信憑性を高めるものはおそらく他にないだろう。偉大な人物が、「わたしは口も重く、舌も思いのです」(出エジプト記4章10節)と告白するのは、実にまれである。仮に考えを表現する能力が自分に欠けていると認識しても、立法者や政治家であれば、それを最後まで隠し通そうとするのが普通であろう。
さらに驚くべきは、孤独にさいなまれ、ことがうまく運ばず、しだいに焦りを見せるモーセの姿である。