じじぃの「歴史・思想_224_人工培養された脳・人工多能性幹細胞(iPS細胞)1」

Stem cells - the future: an introduction to iPS cells

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Q9-4SMGiKnE

『人工培養された脳は「誰」なのか』

フィリップ・ボール/著、桐谷知未/訳 原書房 2020年発行

運命の思わぬ展開――細胞を再プログラムするには より

思いも寄らない発想は、思いも寄らない人材によって追究されることが多い。日本の生物学者山中伸弥はそういう人材のひとりだった。

山中は異例な未知をたどって細胞生物学の世界へ入ったので、他の科学者なら頭から退けるような疑問をいだく傾向があった。
熱心なラクビ―選手だった山中は、当然のように、スポーツ障害に興味を持っていた。しかし、1980年代に外科医として訓練を受けたものの、あまり得意ではないことがわかった(ラクビ―ではなく手術が)。1989年、山中は大阪市立大学医学部に入学し、基礎医学研究の博士号を取得した。そして動脈の詰まりが原因で起こる心臓病と、遺伝子治療の可能性を研究し始めた。やがて山中は、腫瘍増殖に影響する遺伝子を研究するようになり、その過程でマウスの胚性幹細胞を利用し始めた。そして自分が研究している腫瘍抑制遺伝子が、マウスのES細胞を多能性状態に保つのに重要なものらしいことを発見した。
山中は、ヒト胚への依存のせいで、日本ではヒト幹細胞の研究がきびしく規制されていることに苛立っていた。胚なしで幹細胞をつくれないだろうか、と山中は考えた。もし幹細胞の多能性を担っている遺伝子を、成熟した体細胞のなかで活性化できたなら、幹細胞のような状態をつくれるのではないか? 山中は、関連する遺伝子の新たなコピーを体細胞に挿入するという単純な方法で、試してみることにした。
遺伝子治療研究のおかげで、細胞に新たな遺伝子を加える一連の方法はすでにあった。遺伝子治療の目的は、正常に機能する遺伝子のコピーを患者の細胞に注入して、患者のゲノムの病因となる変異した遺伝子を壊滅させることだ。細胞に新しい遺伝子を入れる最良の方法のひとつでは、ウイルスを運搬体として使う。
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医療にウイルスを利用するのは、危険に思えるかもしれない。しかし遺伝子治療にとってウイルスが魅力的なのは、遺伝物質を細胞に運び込む能力があるからだ。ちょっとした遺伝子操作で、ある種のウイルスを、遺伝子に潜り込む能力を保ったまま無害にできる。遺伝子治療を開発している研究者たちは、そういうウイルスをベクターと呼ばれる”遺伝子運搬体”として使う。
山中は、ES細胞のなかで顕著に発現する遺伝子を体細胞に導入するのに、そういうウイルスが使えるのではないかと考えた。遺伝子によって、細胞を原初の状態にプログラムし直せるかもしれないという発想だ。ゲノムがリセットされれば、続く細胞分裂で生まれる娘細胞に、それが受け継がれるだろう。
問題は、ES細胞で特に活発な遺伝子が何百個もあることだった。再プログラムには、そのすべてを加える必要があるのか? それとも、ほんの一部でじゅうぶんなのか? 突き止める唯一の方法は、試行錯誤することだった。しかし、各遺伝子すべてのありえる順列は膨大な数にのぼる。山中は、「当時は、このプロジェクトは完了までに10年、20年、30年、いやもっと長くかかるだろうと考えていた」と語った。完了したとしても、細胞の再起動がうまくいく保証はまったくなかった。多くの人は、はなからあきらめるだろう。
とはいえ、候補の遺伝子のリストを少し搾ることはできた。ES細胞のなかで活発な遺伝子のすべてが、多能性にとって等しく重要なわけではないらしいからだ。
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そのころ京都大学につとめていた山中は、ウイルスを使ってマウスの線維芽細胞に24個の因子候補を導入する方法を開発した。試すべきことが恐ろしくたくさんあった。山中はこう認めている。「じつを言うと、その24個の因子のなかに答えがあるとは予想もしていなかった。まだまだたくさん選別をしなければならないと考えていた」
山中は、助手の高橋和利とともに実施した最初の実験で、24個の因子すべてを投入して一発勝負をかけた。ふたりが驚いたことに、それはうまくいった。マウスの線維芽細胞は、幹細胞のような働きを見せた。誘導によって多能性を持つようになっていたのだ。
しかしそれは、気が遠くなるほど複雑な混合物だった。候補を篩(ふるい)にかける難儀な過程を経て、山中と高橋は、ウイルスで導入した4個の因子だけで、幹細胞の働きを誘発できることを発見した。Oct4、Sox2、c-Myc、そしてKlf4という遺伝子だ。ふたりはこれらの再プログラムされた細胞を、人工多能性幹細胞(iPS細胞)と名づけた。iPS細胞は、胚盤胞段階の胚に付着させると、発生過程にある生物に簡単に取り込まれることがわかった。山中と高橋は2006年、この発見を報告し、翌年にはヒトの体細胞からiPS細胞をつくった。ウィスコンシン大学のジュームズ・トムソンも個別に同じことを成し遂げたが、結果報告が少し遅かった。
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イギリスの発生生物学者ジョン・ガードンと日本の山中伸弥は、2012年のノーベル生理学・医学賞を共同受賞し、彼らの業績は、臨床医学と医学研究の革命的な進歩の先触れになるものとして讃えられた。

しかし、それが本当に意味するところは、もっと複雑だ。ノーベル賞の受賞理由では、彼らの研究が「細胞分化と分化状態の可塑性についての理解にパラダイムシフト」をもたらした、と発表された。もう少し率直に言えば、それは人の”存在”という概念を変え、もはや時間の経過にとらわれる必要をなくしてしまったのだ。