じじぃの「歴史・思想_187_未完の資本主義・セドラチェク・脱成長至上主義」

Is It Possible To Live A Simple Life ?

Simple Days
In today’s world, we are bombarded with things from the minute we wake up until the minute we fall asleep. Our lives are far from simple.
https://simpledays.co.uk/is-it-possible-to-live-a-simple-life/

PHP新書 未完の資本主義―テクノロジーが変える経済の形と未来

大野 和基【インタビュー・編】
内容説明
経済学者シュンペーターは「資本主義の欠点は自ら批判されたいと願っている点だ」と述べた。批判すらも飲み込み自己変容を遂げていく「未完」の資本主義。とりわけ近年は、テクノロジーの劇的発展により、経済の形が変わり、様々な矛盾が噴出している。本書は、「テクノロジーは資本主義をどう変えるか」「我々は資本主義をどう『修正』するべきか」について、国際ジャーナリスト・大野和基氏が、世界の「知の巨人」7人に訊ねた論考集である。経済学、歴史学、人類学…多彩な視座から未来を見通し、「未完」のその先の姿を考える、知的興奮に満ちた1冊。
【目次】
プロローグ―「未完」のその先を求めて
4 成長を追い求める経済学が世界を破壊する(トーマス・セドラチェク)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784569843728

『未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来』

ポール・クルーグマン, トーマス・フリードマン, デヴィッド・グレーバー, トーマス・セドラチェク, タイラー・コーエン, ルトガー・ブレグマン, ビクター・マイヤー・ショーンベルガ―, 大野和基/編 PHP新書 2019年発行

成長を追い求める経済学が世界を破壊する(トーマス・セドラチェク) より

世界は共産主義化している?

――最近、資本主義について、それより優れたシステムが見つかっていないという意味で、「最悪のシステムの中の最善のシステムである」と主張する識者が増えています。

セドラチェク

 確かに、それは最近よくいわれる主張だといえます。ただ、資本主義とは何かを定義するのはじつに難しい。最近この言葉は、共産主義という意味で使われることが多くなってきています。ここでいう共産主義とは、誰が金持ちで誰が貧しいかは関係なく、あるものをみんなでシェアする、という意味です。昔から天気は、我々みんなでシェアするものでした。最近はコカ・コーラがそうです。裕福な人は貧しい人よりも、おいしいコカ・コーラを飲むことができません。

――舌が肥えているからですね。それはわかりやすい例ですね。

セドラチェク

 同じことがインターネットにもいえます。私の息子は11歳ですが、ビル・ゲイツのものと同じような携帯電話を使っています。ヨーロッパでは、誰もが同じヘルス・ケアを受けます。やはり、金持ちが貧しいかは関係ない。このように、何が資本主義的で何が共産主義的なのかを問うのは、とても難しいのです。
 私が述べているのは、資本主義は変化する、ということです。20年前の資本主義といまのそれは異なっています。200年前の資本主義は、いまとはもっと違っていました。かなり酷いタイプの資本主義だった。200年前なら、恐らく私はマルクス主義者になっていたでしょう。小さい子供が(過酷な労働で)死んでいたからです。その一方で、もしマルクスがいまの時代に生きていたら資本主義国に住みたいと思うかどうか。これは興味深い問いであるといえます。現代の資本主義国なら(マルクスの目指していたような、誰にとっても)とても快適な生活ができますが、彼の思想とは離れています。では、彼は中国や北朝鮮のような共産主義国に住みたいと思うでしょうか?

成長至上主義こそが社会の病につながっている

――「見えざる手」などはないというわけですか。

セドラチェク

 先ほど、「市場の見えざる手」の存在は信じられないと述べましたが、私は「社会の見えざる手」の存在は信じています。たとえば、1989年の革命のときに政治を救ったのはアートです。アーティストたちから革命が起こり、それを受けて政治家たちは、これまでとは違ったことをしなければならないと考え、多くの共産主義国家で変革が起ったのです。
 ときには変革を起こすのが、哲学者になるかもしれない。また、アートが窮地に陥るとビジネス側がスポンサーになって逆にアートを救うこともあります。社会が能率重視になりすぎるとヒッピー文化が生まれるし、官僚的になったらフランツ・カフカが生まれます。社会には、偏りを修正しようとする機能があるのです。しかし、修正など必要ない、いまの状態が最高なんだというふりをしていたら、「見えざる手」は社会にではなく、市場にしか働きません。市場とは、社会のほんの一部分でしかありません。
 経済学者は、外部性(市場取引に伴って、その副次的効果が市場を経由せずに取引当事者あるいはそれ以外の第三者に及ぶこと)しか問題にしないともいえます。「教育面に負の外部性が及んだので、もっと資金を投入すべきだ」などと、何が正で何が負か、経済学者が裁判官のように決めてしまいます。市場それ自体が外部性だというのに、です。
 取引の場で買い手が相手にするのは、売り手の「このペンを2ドルで売りたい。そうしたらそのお金で別のもんが買える」という意志、それだけです。「この取引によってペン市場を生み出したい」などという意志は、相手にしません。市場の動向によって増税などの政策が決まる、だから、市場それ自体が外部性なのです。

――端的にいって、従来の「経済学」の誤りはどこにあるのでしょうか。

セドラチェク

 共著の『続・前途悪の経済学 資本主義の精神分析』の中で、私は精神科医になって「経済」を患者として診療し、誤りを浮かび上がらせるという試みを行ないました。「経済学」をソファに座らせて、聞くのです。「あなたの望みは何ですか? 夢は? 怖い者はありますか?」
 たとえば、「経済学」が「成長したい」といった。でも、その成長という価値観こそが社会にある非常に多くの、注目すべて病につながっています。
 また、前述した「現実から目を背け、偽る」ことも病の1つです。「経済学」には数字がたくさん出てきますが、数字で説明可能なものしか見ることができないというのは、あまりに自閉症的です。方程式を解くことから得られる回答は、どんなものであれ解決にならない、と私はつねに述べています。数字で表せる価値しか、計算していないからです。それでは完全な答えは導けません。
 たとえば、いま私が着ているジャケットには価値があります。30ドルで売れるかもしれません。でも、世の中には友情という価値もあります。それはこのジャケットよりもはるかに価値がありますが、価格を付けることはできません。もしそれに価格を付けたら、すべてが崩壊します。つまり、社会にはいろいろな価値体系がありますが、価格が付けられるものと、そうでないものがあるわけです。にもかかわらず、数字を付けられるものだけで計算しようとすると、答えはつねに間違ったものになる。これこそ、まさに「経済学」の病です。