じじぃの「歴史・思想_151_ホモ・デウス・知識のパラドックス」

【9分で解説】ホモデウス【衝撃の未来】神になる人類と家畜になる人類

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yyZ349p5hSI

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 2018/9/5 ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳) Amazon

世界1200万部突破の『サピエンス全史』著者が戦慄の未来を予言する! 『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのかを示した。『ホモ・デウス』は私たちがどこへ向かうのかを示す。
全世界1200万部突破の『サピエンス全史』の著者が描く、衝撃の未来!
【上巻目次】
第1章 人類が新たに取り組むべきこと
生物学的貧困線/見えない大軍団/ジャングルの法則を打破する/死の末日/幸福に対する権利/地球という惑星の神々/誰かブレーキを踏んでもらえませんか?/知識のパラドックス/芝生小史/第一幕の銃

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『ホモ・デウス(上) テクノロジーとサピエンスの未来』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 河出書房新社 2018年発行

人間が新たに取り組むべきこと より

ジャングルの法則を打破する

飢餓と疫病と戦争はおそらく、この先何十年も厖大な数の犠牲者を出し続けることだろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに、対処可能な議題になった。だからといって、貧困に喘(あえ)ぐ何億もの人や、マラリアエイズ結核で毎年亡くなる何百万ものシリアやコンゴアフガニスタンで暴力の悪循環にはまり込んだ何百万もの人の苦しみを過小評価するわけではない。また、飢饉と疫病と戦争がこの地上から完全に姿を消した、もう心配するのはやめるべきだ、と言っているのでもない。その正反対だ。人々は歴史を通じて、この3つは解決不能の問題だと考え、それらに終止符を打とうとしても無意味だと感じてきた。人々は神に奇跡を祈ったが、飢饉と疫病と戦争を根絶しようと自ら真剣に取り組みことはなかった。2016年の世界は1916年の世界と同じぐらい飢え、病み、暴力に満ちていると主張する人々は、この昔ながらの敗北主義の見方に固執しているわけだ。彼らは、20世紀に人類が途方もない努力をしたのに、何1つ達成できず、医学研究も経済改革も平和運動もすべて無駄だったと言っていることになる。もしそうなら、将来の医学研究や斬新な経済改革や新たな平和運動に、時間と資源を投資する意味がなくなってしまうではないか。
過去の業績を認めれば、希望と責任のメッセージを伝えられるし、将来なおいっそうの努力をするように奨励することにもなる。20世紀に成し遂げたことを思うと、もし人々が飢饉と疫病と戦争に苦しみ続けるとしたら、それを自然や神のせいにすることはできない。私たちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らすことは十分可能なのだ。

知識のパラドックス

21世紀には人類は不死と至福と神性を目指して進むという予測に腹を立てたり、疎(うと)ましさを覚えたり、恐れをなしたりする人は少なからず出るかもしれないので、いくつか説明しておく必要がある。
第1に、不死と至福と神性を目指すというのは、21世紀にはほとんどの個人として実際にすることではない。人類が集団としてすることだ。大多数の人は、仮にこれらのプロジェクトで何かしら役割を演じるとしても、それはほんの些細なものにとどまるだろう。飢饉と疫病と戦争が以前よりも一般的でなくなったとしても、エリート層がすでに永遠の若さや神のような力を手に入れようとしている一方で、開発途上国や貧しい地区では、何十億という人が貧困や疾患や暴力に直面し続けるだろう。これは明らかに不当に見える。たとえ一人でも栄養不足で亡くなる子供や麻薬密売組織の抗争で亡くなる大人がいるかぎり、人類はそうした災難と戦うことに全力を傾けるべきだと主張することもできるだろう。最後の一振りの剣が鋤(すき)に作り変えられたときに初めて、私たちは次の大目標にッ頃を向けるべきだ、と。だが、歴史はそのようには進まない。宮殿に暮らす人々はつねに、丸太小屋に住む人々とは違う課題リストを持っていたし、それは21世紀にも変わりそうもない。
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天気のような複雑系には、私たちの予測にまったく影響されないものもある。それに対して、人間に関連した物事が展開する過程は、私たちの予測に反応する。それどころか、その予測が優れているほど、より多くの反応を引き起こす。したがって、逆説的な話だが、データを多く集め、演算能力を高めるほど、突飛で意外な出来事が起こる。私たちは知れば知るほど、予測ができなくなる。たとえば、想像してほしい。いつの日か、専門家たちが経済の基本法則を解明するとしよう。その日が来たら、銀行や政府、投資家、消費者はみな、この新知識を利用し始め、斬新な行動を取って競争相手より優位に立とうとする。なにしろ、斬新な行動につながらないのなら、新しい知識も使い道がないではないか。だが、遺憾ながら、みなが行動の仕方を変えたら、新しい経済理論も時代遅れになってしまう。過去に経済がどう機能したかはわかるかもしれないが、現在どのように機能しているのかはもう理解できないし、将来の様子を理解することなど、望むべくもない。
これは仮想の例ではない。19世紀半ばに、カール・マルクスは見事な経済学的見識に到達した。彼はその見識に基づいて予測した。労働者階級(プロレタリアート)と資本家の争いはしだいに暴力的になり、最後には前者が必然的に勝利し、資本主義体制は崩壊するというのだ。イギリスやフランスやアメリカといった、産業革命の先鋒だった国々で革命が始まり、それが全世界に拡がるとマルクスは確信していた。
ところが、資本主義者も字が読めることをマルクスは忘れていた。最初はほんの一握りの信奉者だけがマルクスの言葉を真剣に受け止め、彼の著作を読んだ。だが、これらの社会主義の煽動者たちが支持者を集め、力をつけるにつれ、資本主義者たちは警戒した。彼らも『資本論』を読み、マルクス流の分析の道具や見識の多くを採用した。20世紀には、ホームレスの子供から大統領までもが、経済と歴史へのマルクス主義のアプローチを受け入れた。マルクス主義者による今後の目立てに猛烈に反発した筋金入りの資本主義者たちでさえ、マルクス主義の下した診断は利用した。CIAが1960年代にヴェトナムやチリの状況を分析するときには、社会を階級に分けた。ニクソンサッチャーが世界を眺めるときには、誰が重要な生産手段を支配しているのかを自問した。1989年から91年にかけてジョージ・ブュシュは共産主義の帝国の終焉を目の当たりにしたが、92年の選挙でビル・クリントンにあえなく敗れた。勝ちを収めたクリントンの選挙戦略は、「肝心なのは経済だよ、お馬鹿さん」という決まり文句に集約されていた。マルクスでもこれほどうまくは言えなかったろう。
人々はマルクス主義による診断を採用しながら、それに即して自分の行動を変えた。イギリスやフランスといった国々の資本主義者は、労働者の境遇を改善し、彼らの国家意識を強化し、政治制度の中に取り込もうと奮闘した。そのおかげで、労働者が選挙で投票するように労働党が各国で次々に力を獲得したときにも、資本主義者たちは依然として枕を高くして眠ることができた。結果として、マルクスの予測は外れた。イギリス、フランス、アメリカなどの主要な工業国が共産主義革命に呑み込まれることはけっしてなく、プロレタリアート独裁は歴史のゴミ箱行きとなった。

これが歴史の知識のパラドックスだ。

行動に変化をもたらさない知識は役に立たない。だが、行動を変える知識はたちまち妥当性を失う。多くのデータを手に入れるほど、そして、歴史をよく理解するほど、歴史は速く道路を変え、私たちの知識は速く時代遅れになる。