資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 集英社新書
【著者略歴】
■マルクス・ガブリエル(MG)
史上最年少でボン大学哲学正教授に抜擢された天才哲学者。ベストセラー『なぜ世界は存在しないのか』、
NHK『欲望の資本主義』シリーズなどでメディアの寵児に。
■斎藤幸平
1987年生まれの若き経済思想家。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0988-a/
なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ) 2018/1/13 マルクス・ガブリエル (著), 清水 一浩 (翻訳) Amazon
●新しい実在論
ポストモダン思想は強力だった。いや、過去形ではなく、現代もわれわれはその影響下にある。典型的なのは、絶対的な価値など存在しないという相対主義だろう。それが俗化すると、安倍政権への支持者も反対者もどっちもどっち、といった冷笑的態度になる。絶対的に正しいことなんてありはしない、と。
だが、ほんとうにそれでいいのか? 漠然とした不安と反発を感じていたところに登場したのがマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』だ。著者は1980年生まれの哲学者。2009年にボン大学教授となり、ドイツでは最年少の哲学正教授として話題になったという。
キャッチーなタイトルで、映画やテレビドラマを具体例として挙げつつ、平易なことばで難解なテーマについて語る。読んでいるとなんとなくわかったような気持ちになってくる。売れている理由はそのへんにあるのか。
著者は「新しい実在論」なるものを唱える。ぼくらがいようといまいと、ぼくらとは関係なしに世界が存在すると考える形而上学。ぼくらそれぞれに、それぞれの世界があると考える構築主義(ポストモダン)。「新しい実在論」はそのどちらも否定する。まったく新しい異次元の考え方というよりも形而上学と構築主義のいいとこどりというかハイブリッドというべきか。
導入するのが「意味の場」という概念だ。存在する(つまり「ある」)ということは、何らかの意味の場のなかに現れることなのだという。
世界はあるのかないのか。ぼくが世界だと思っているここは、世界ではないのか。本書をもういちど読み直そう。
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「ポスト真実」の時代を生んだ真犯人 より
普遍的価値は存在するのか
斎藤
歴史修正主義と相対主義の関係に話を戻しましょう。
歴史修正主義者たちが過大に重要視するのが、戦前の日本にもドイツにも、それぞれ固有の文化、社会的な条件、価値の基準が存在したという点です。そうした固有の条件に基づいて考えれば、当時の帝国主義的な政策を正当化してかまわないのだというのが、歴史修正主義者たちの考え方ですね。従軍慰安婦の存在は当時の状況下において正当化できると彼らは言うわけです。
人権や民主主義など、私たちが自明だと考える価値が、時代や場所が異なる状況下においては、妥当性を失うという相対主義者の主張は正当化されるべきでしょうか。
MG
もちろん、正当化などできません!
相対主義者は、こう言うのです。「普遍的価値なんか本当は存在しない。普遍的価値なんか本当は存在しない。普遍的価値を信じるいる人は、他の集団を支配したいだけなんだ」と。あるいは、ホワイトハウスをめぐる政治ドラマ「ハウス・オブ・カード」の大統領役フランク・アンダーウッドの「正義などない。あるのは征服だけだ」というセリフも相対主義者は好きでしょうね。
MG
そういう人たちは人権や民主主義が西洋から輸入されたものだと考えているのでしょう。しかし、人権の概念は西洋だけの局所的なものではなく、古代中国やインドの哲学においても同様の概念を見つけることができるのです。
人権とは、人間とは何かという概念の自己規定から導き出される普遍的な価値であり、それは文化的・時代的な価値観によって左右されるものではありません。多様な真理が存在するのではない。ユダヤ教・キリスト教的な西洋の価値とは異なる、ロシアや中国の価値があるわけではないのです。
要するに「ポスト真実」などという、真実がいくつも存在するという相対主義の見方は、事実に直面するのを避けるための言い訳に過ぎません。
斎藤
相対主義は、本当にシニカルですよね。相対主義に従えば、他者と互いに理解し合うことなどはできない、それぞれ、分断された世界に住んでいるのだということになる。相対主義者は、「他者性」(文化・価値観の違い、よその伝統など)をつくり上げることによって、自分が見たいものだけを見ています。
新実在論で民主主義を取り戻す より
なぜ世界は存在しないのか
斎藤
それが「世界は存在しない」という、あなたの有名な挑発的主張を意味するものですね。ここでいう「世界」とは、全領域を包含する領域という定義です。
MG
そうです。私の主張は、とても単純な思考実験で、説明することができます。
宇宙は膨張していると、みんなが言っています。それはそのとおり。しかし、宇宙が膨張しているなら、宇宙が膨張している、その空間とは何でしょう?
風船をふくまらせている場合、風船がふくらんでゆく空間があります。風船をふくらませる空間がないのに、風船をふくらませることはできません。
この風船と同じように、もし宇宙が時間も空間もすべて含む存在で、宇宙がふくらむ空間がないのならば、宇宙は膨張できませんよね。この直感が正しいのなら、当然、次のような疑問がわいてきます。「膨張している宇宙の、その外側にあるのは何だろうか?」と。
斎藤
宇宙が膨張するために、さらなる空間が存在する。
MG
ええ、「マルチバース」(複数宇宙)ですね。その場合、次に知りたくなるのは、「マルチバースはどこにあるのか? マルチバースの外側に空間があるのではないか?」ということです。しかし、その空間のある空間とは、何なのか。ひとつ次元が上がったけれど、この次元も、さらに大きな次元のうちに埋め込まれている。結局、同じ質問が無限に続くのです。
したがって、すべてを包括する全体性としての「世界」は存在しないのです。
自然科学は、宇宙と世界を同一視していますが、それは根本的に間違っています。自然科学は世界の存在という問題を解決しません。
なぜなら、自然科学が扱う事ができるのは、限られた範囲の対象だけだからです。正義、美、数式の本質などについて、自然科学からは何も重要なことを導き出せません。自然科学は、非物質的な永遠的対象を研究しないのです。
ただ、それだからといって、非物質的な対象が存在しないわけではありません。私たちが、態度を合わせることができる、さまざまな状況が存在しています。たとえば、能を観る時、私は演者の舞や謡に自分の態度を合わせます。あなたが物理学者なら、あなたはクォークやグルーオンに態度を合わせる。政治家なら有権者から陳情や政敵との闘いに態度を合わせます。
しかし、「世界」に態度を合わせることができず、それゆえ世界は存在しないのです。