じじぃの「科学・芸術_906_ミチコ・カクタニ『真実の終わり』」

愉しみながら死んでいく ―思考停止をもたらすテレビの恐怖―

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●感想・レビュー
マホどころかネットすらない30年前に出た本。「愉しみながら死んでいく」とは皮肉なタイトルだ。
テレビは世界を変えたのか。家族共通のものだったテレビは、一人一台所有されチャンネル争いもなくなり、スマホでもテレビを見る時代。家族という共同体は完全に解体した。テレビに限らずメディアは大衆の心をつかむために表現が単純化し、わかりやすくから愉しく、深刻なニュースすら娯楽化された。テレビのない生活は考えられない現在、画面の前で時間を浪費し続ける人々。くだらないと思いながらも見続けるテレビは麻薬のような機械だ。

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『真実の終わり』

ミチコ・カクタニ/著、岡崎玲子/訳 集英社 2019年発行

おわりに より

洞察の鋭い1985年の著書『愉しみながら死んでいく』を通じて、ニール・ポストマンは電気プラグが可能にしたテクノロジーによる気晴らし」が私たちの文化的会話を永久に塗り替えていると論じた。それは、より些細な、取るに足らぬものになり、伝達される情報も「単純に割り切った、実質のない、非歴史上の、文脈のないものに、つまりエンターテインメントとして梱包された情報」と化していると。
「我々の聖職者や大統領、外科医や弁護士、教育者やニュースキャスターたちは」とポストマンは書いた。「自らの専門分野の要求よりも演出術を気にかけるようになっている」。
「電気プラグ」とはテレビを指していたが、ポストマンの考察はインターネット時代にもっとぴったり当てはまる。データ過多により、もっとも明るく光るもの、すなわち最も大きな声または最も常軌を逸脱した意見が私たちの注意を引き、最も多くのクリックと熱狂を獲得するようになった。
『愉しみながら死んでいく』でポストマンは、オルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いたディストピア図(薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る)と、ジョージ・オーウェルが『1984年』で創作した世界(人々はビッグブラザーの抑圧的な専制支配の下で暮らす)とを比較した。
オーウェルは我々から情報を奪う者を恐れた」とポストマンは記した。「ハクスリーは、我々が受動性とエゴイズムに陥るまでに多くを与える者を恐れた。オーウェルは真実が我々から隠されることを危ぶんだ。ハクスリーは無意味な物だらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」。
ポストマンが言うには、ハクスリーのディストピアは20世紀後半に既に実現しつつあった。全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側のリベラル民主主義国家への脅威(これが1985年のことだったと覚えておいてほしい)は「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々をめぐるハクスリーの悪夢によって象徴されているとポストマンは主張した。
ポストマンによるこれらの考察は時代を先取りしておりジョージ・ソーンダースによって繰り返されることになる。2007年のエッセイ『The Braindead Megahone(脳死のメガホン)』で彼は、全国規模の会話がO・J・シンプソンやモニカ・ルインスキーを扱う長年の報道によって危険なほど脱落したと論じた。我々の国単位の言語は俗物化され、同時に「攻撃的で、不安を呼び起こし、感傷的で、対立を煽る」あまり、イラクを侵略しようかと真剣に議論を試みる時が訪れた頃には「我々は無防備だった」と彼は述べた。我々が手にしていたのは「O・Jなどを論じるために使っていた未熟で誇張的な道具一式」だけだぅた。それは彼がメガホン男と呼ぶ、耳障りな知ったかぶりの何も分かっていない人物が叫ぶ戯言(たわごと)だ。そのハンドマイクは知能レベルが「バカ」音量が「すべての他音をかき消す」に設定されている。
しかし、ハクスリーに関するポストマンの考察にいくら先見の明がある(そしてハクスリーが私たちの気晴らしの新時代を予知していた)とはいえ、彼がオーウェルディストピアの実際的な重要性を過小評価していたことも明らかだ。あるいは、トランプとその政権が真実の概念そのものに対して犯す攻撃が『1984年』を再びタイムリーにしているのかもしれない。読者もこれを認識し、トランプ就任の月に『1984年』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』をベストセラー・リストへ押し上げた。