じじぃの「科学・芸術_801_ルクセンブルクの外国人」

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ルクセンブルクを知るための50章

田原憲和、木戸紗織/編著 赤石書店 2019年発行

ルクセンブルクにおける外国人 その歴史と可能性 より

2018年のルクセンブルクの人口60万2005人のうち、28万8963人、すなわち人口の半分弱にあたる47.9%が外国人であった。近隣諸国と比較すると、オランダが4.6%、ドイツが13%、フランスが6.6%、ベルギーが11.2%であり、その割合は著しく高い。外国人人口のうちEU域内の国籍をもつ人びとは25万9511人(89.8%)でなかでもポルトガル国籍の割合がもっとも多く、全人口の16%を占めている。そしてフランス(7.6%)、イタリア(3.6%)、ベルギー(3.4%)、ドイツ(2.2%)がそれに続く。
ルクセンブルク外国人労働者を積極的に受け入れるようになるのは、19世紀の後半以降である。背景の1つに、1842年にドイツとの間で結ばれた関税同盟があった。1870年以降、鉄鋼業が飛躍的に発展する一方で、国内にはそれに従事できる有資格労働者が少なかったため、主にドイツ人、フランス人、ベルギー人が雇用される。また、それまでのルクセンブルクの主な産業は農業であったが、その水準は高くなく、貧困から逃れるために多くの人びとが国外、とりわけフランスやアメリカ大陸に移住していたことも挙げられる。この時期のルクセンブルクは、ヨーロッパにおける主要な移民送出国でもあった。
1892年以降、新たな製鋼所の建設ラッシュが始まると、労合力不足は深刻になり、経済的に停滞していたイタリアからの労働者が入国した。
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第一次世界大戦が始まり情勢が悪化すると、ドイツ人やイタリア人たちは帰国し、ルクセンブルク労働者がそれに取って代わる。開戦前の1913年に鉄鉱業に従事していた労働者の60.5%が外国人であったが、1918年には70%がルクセンブルク人となる。戦間期になると外国人の入国が再開するものの、世界恐慌が起こると多くの労働者たちは職を失い、帰国した。第二次世界大戦の勃発とドイツによる占領は外国人排斥をもたらし、終戦後の1947年には、外国人人口は全体の10%にまで減少した。
戦後の復興期を最初に支えたのはイタリア人労働者であった。1947年に7622人だったイタリア人は、1960年に1万5708人を数えた。しかし、その大半が1年未満の有期雇用で、提供された住居は劣悪なものであり、家族の呼び寄せも認められなかったため、彼らのおかれた状況はけっして安定したものとはいえなかった。1950年代の後半以降、本国の工業化や、近隣諸国の高い賃金に機会を求めたイタリア人たちの一部はルクセンブルクを離れる。
1960年代以降は、イタリア人に代わってポルトガル人が外国人人口の大半を占めるようになる。人口の伸び悩みと経済成長とが重なり、とりわけ工場労働や建設業、飲食業の分野で労働力不足を抱えていたルクセンブルクには、当時西ヨーロッパにおける主要な移民送出国であったポルトガルから労働者が多数入国した。この時期に経済発展を遂げたほかのヨーロッパ諸国と同じく、ルクセンブルク人たちはさらに有資格の労働と高い賃金を求め、代わりに外国人たちがブルーカラー労働に従事したのだった。1970年5月には、ポルトガル政府とのあいだで労働者の受け入れにかんする協定が結ばれる。
ルクセンブルクにおいて外国人人口が再び増加するのはこの時期からである。1960年に全体の約13%だった外国人人口は、1970年に18%、1981年に26%、1991年に29%、2001年に36%となる。常に多数を占めているのはポルトガル人であるが、そのなかには1975年までポルトガル領だったカーボベルデの出身者も多い。彼らは独立後もポルトガルの市民権を得ることで、協定を通じてルクセンブルクに移住した。
また、ルクセンブルクは外国人人口だけでなく、国境を越えて通勤するフロンタリエと呼ばれる越境労働者の割合もEU域内でもっとも高い。定住する外国人と同じく増加を続けており、1980年に1万3800人だったフロンタリエは、2017年には18万3548人を数えた。彼らの約半数がフランス出身者(9万4702人)で、ベルギー(4万4535人)とドイツ(4万4311人)出身者がそれぞれ4分の1ほどである。2050年には30万人に達するともいわれており、労働市場におけるフロンタリエの存在は重要である。一方で、給与生活者の45%がフロンタリエから構成されていることもあって(2017年)、不況期になると、ルクセンブルク人の雇用を脅かす存在とみなされることもある。