じじぃの「科学・芸術_685_スピノザ『エチカ』」

God of Spinoza 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMxbiKUPX8

100分 de 名著 名著82 スピノザ「エチカ」 2018年12月3日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光安部みちこ 【指南役】國分功一郎東京工業大学教授)
現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。
「エチカ」を直訳すると「倫理学」。つまりこの本は「人はどうやって生きればよいか」を問うた本である。それは、要するに「生きていく上で、「善い」「悪い」の区別をどうするかという問題だ。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/82_ethica/
『冒頭を読む 世界の名著世界の名著101』 熊木信太郎/編訳 論創社 2018年発行
エチカ バールーフ・デ・スピノザ(1632〜77) より
オランダの哲学者、神学者。主な著作として1670年に刊行された『神学政治論』があり、また『エチカ』は没後の1677年に出版された。
第一部 神について
一 私は自己原因を次のように理解する。すなわち、その本質が実在を伴うもの、つまり実在としてしかその本性を認知できないものである。
二 同じ本性を有する別のものによって認定され得る事物は、それ自体の種類の中で有限と言われる。
  例えば、物体は、より大きいものが常に認知されているので、有限と言われる。よって思考は別の思考によって限定される。しかし物体が思考に限定されることはなく、思考が物体に限定されることもない。
三 私は実体を次のように理解する。すなわち、それ自体の中にあって、それ自体を通じて認知されるもの、つまりその観念を形作るにあたり別の事物の乾麺を必要としないものである。
四 私は属性を次のように理解する。すなわち、ある実体について、その本質を構成していると、知性が知覚しているものである。
五 私は様態を次のように理解する。すなわち、実体の特性、つまり他のものの中にあって、それを通じて同じく認知されるものである。
六 私は神を次のように理解する。すなわち、絶対的に無限の存在、言い換えれば、無限の属性で構成されている実体であり、属性の一つ一つは永続的かつ無限の本質を表している。
  説明
  私は「絶対的に無限」と言うが、「それ自体の種類の中で無限」とは言わない。単に自己の種類の中だけで無限であるなら、無限に多いと言う属性を否定できるからである(すなわち、我々は、その本性に関連しない無限の属性を認知し得る)。しかし絶対的に無限のものは本質を表現し、否定を伴わないものはすべてその本質に属する。
『21世紀への遺書』 三石巌/著 立風書房 1994年発行
20世紀の意味 より
前世紀の末に西洋文明の退廃がいわれたとき、それを憂えたニーチェは、その原因を考えた。そして、キリスト教と合理主義とを挙げた。この両者に価値をおくことをやめて、レーベン(生命・生活・生涯・人生)を上位とする価値体系に転換すべきであるとした。キリスト教は奴隷道徳を圧(お)し付けて民衆のバイタリティーを奪った、とニーチェはいう。そして、神の退陣を要求せざるをえなくなった。
このニーチェのレーベンの哲学は、カントの規定する学問から無縁なほど遠い。その抱える弱点は、合理主義の排除ともなった。20世紀になったとき、神は死に瀕しても合理主義は生き延びているではないか。
聖俗の上下の逆転だけでは、神は死なない。アインシュタインは、「神はサイコロを振らぬ」といって、量子力学に現れる確率論を嫌った。彼はよくスピノザ(1632〜1677)を語り、神の名を口にした。アインシュタインばかりでなく、一部の科学者の心に、近代を経て現代にいたるまで神は生きていた。
一神論にせよ汎神論にせよ。神が絶対者であれば、決定のみが神の意向である。ここにサイコロを振るような確率論はない、ということである。神の支配する宇宙に通用する法則は、決定論であって確率論ではない。これがアインシュタインの信念であった。自然の自己運動に主宰者があるとすればそれを神としたらよかろう、という私の提案が無難ということになるだろう。スピノザはともかく、ニュートンにとっての神もまさにそのようなものであった。
ユダヤ人でありユダヤ教徒であるスピノザに、アインシュタインは傾倒した。スピノザの神は、「自分自身のなかにあり自分自身により考えられるもの」である。この反キリスト教的・反ユダヤ教的神ならば、この20世紀の科学者の心のなかに生きつづけたとしても不思議とはいい切れまい。